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愛があふれていれば虐待ではないのか?

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あどけない表情。控え室では、靴下、ドレス、すべて母親が着せてあげ、その子はただ立っているだけで良い。演奏直前まで無邪気に母親と手をつないでいる。それが、ひとたびステージに出て弾き始めると、大人が弾くような作品を、大人しかわからないような奥深い感情とほのかなエロティシズムさえも伴って響いてくる。ビジュアルと音とのアンバランスさ。まるで白昼夢を見ているよう。
 
しかし、一見深みがあるように見えるが、良く目をこらして聴くと、そこから産毛のように薄く、無垢なものが透けて見える。
 
あるコンクールにおいて見た光景。その子は、前評判どおり一等賞を獲得しました。
 
その究極の姿が、アメリカの教科書にも載っている伝説の天才少女でもあったヴァイオリニスト五嶋みどりさんだったかもしれません。
周囲の反対を押し切り、お母さんの五嶋節さんとたった二人きりでの渡米。
レッスン以外ではものすごく優しかったそうですが、指が痛くても続けさせ、出来ないと叩く、蹴る、という厳しいスパルタ教育を施し、後に「あれは虐待だった」と後悔の念とともに明かしておられます。
 
悪魔に魂を売ったとまで言われるパガニーニの作品を、10歳にも満たない子供が無敵の超絶技巧で演奏する。
それがごく自然に聴こえるのがみどりさんの凄さであり、それを弾かせてしまう節さんの神通力とまでいえる気迫。それは子に対する愛なのでしょうか。いや、愛などというものを超越している。
一心同体。みどりさんの姿は節さんの姿でもある。厳しさは両方に課された宿命であったのだと私は思います。
 
神童の演奏を聴く聴衆は大人であり、演奏する曲も人生経験を積んだ大人の作品。子供向けの曲ではないのです。音楽に「子役」というものはありません。必然的に大人の技術と感情表現を身に付けなくてはならない。だからこそ神童なのです。
 
節さんはレッスンで、みどりさんに一音一音すべて、大人の感情表現を仕込んだのだそうです。
 
こんなことが出来るのか?と思うかもしれません。しかし私はよくわかります。
 
私は子供の頃のレッスンで、たった一つの音についても、「ちがう!」「ちがう!」「ちがう!」と、先生が「そう!」と言うまで何度も弾かされました。
それは「どこが違うのか?」「なぜ良かったのか?」と自分ではよく分からなくても、とにかく先生に言われたとおり、タッチの速度や、音と音のタイミングを体で覚えていきます。一小節に何十分もかかります。
そして、その合間には、大人が見るような映画や小説、先生の体験などを、音楽に合わせて語られる。子供の私には初めて聞くような世界のお話し。
だから、そのレッスンは2時から始まっても5時過ぎまで終わらない。先生は一生懸命、出来の悪い私に根気良く教えてくださいました。一緒についてきた母親に「今のところ出来なかったらこの子夕飯抜きにしてください」とおっしゃるほどでした。自分のお時間を削ってでも献身的にお教えくださった。私にとって素晴らしいご縁だったと思います。
 
子供はタッチの感覚を完全に覚え、そのまま演奏する。先生の思う「こうあるべき」という大人びた音楽を完璧に感情までコピーさせることは可能です。
 
みどりさんの場合、それ以上のレベルで、それが毎日続いたのだと思います。
神話はこうして作られたのです。
 
しかし、私はそこに、一つの危うさを感じないわけではありません。
 
もちろん、人生のどこかで一呼吸おいて、自分の経験と合致させ、ゆっくり消化していけば、「ああ、先生のおっしゃっていたあれはこういうことだったのか。」と腑に落ちる時期がやってきます。
 
しかし、衝撃的なデビューで世界中を駆け巡る忙しい毎日。演奏の重圧。当然、普通の若者が経験するような人生とは違ったものになってしまう。
みどりさんが、ある時期極度に体調を崩され、摂食障害で入院してしまったのは、それと全く関係ないものではなかったと思います。
頭を深くかしげた独特のフォームで一心不乱に弾く姿。心を引き裂くような音色。完璧なテクニック。しかし、なぜか聴いたあと悲しさが心に残るのです。
 
今、国連平和大使として音楽で社会貢献をしておられます。幸せになる人々がいるのと同時に、みどりさんの心も充実されているのではないかと想像します。今後、音楽がさらに素晴らしく変化していくのではないかと期待しています。

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