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本当に音楽をとめるべきだったのだろうか? 「NYフィルの公演中に携帯の着信音、指揮者が演奏中断」

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コンサートにおける携帯電話の着信音。
その瞬間に感動が一気に吹き飛んでしまいます。
 
逆に演奏している立場でも会場の音というのは気になるものです。
客席に持ち込んだ花束を包むセロファンがこすれる音(本来は受付に預けるようになっています)、プログラムの落ちる音、咳やくしゃみ、このような様々な音は、演奏している方にとって、集中を途切れさせないようにするための心得が必要なほどです。
 
それは、講演のような話しているときでも同じです。
例えば、話の合間の沈黙する瞬間。
その瞬間にこそ、深い真実があるのです。
 
携帯の音は、音楽であれ、話であれ、それを暴力的に破壊してしまう威力を持つのだと思います。
 
2012年1月10日夜、米名門オーケストラ、ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートの最中に観客の携帯電話が鳴り響き、指揮者が演奏をストップするハプニングがありました。→記事
 
マーラーの交響曲第9番。
死の恐怖との闘い。のたうちまわり断末魔のうめき声をあげる。・・・そしておとずれる最後の静寂の音楽。
 
そのとき携帯の音が3~4分鳴り響き、指揮者のアラン・ギルバートさんは音楽を止めてしまったと言います。
 
このマーラーというユダヤ人の作品を、1930年代にユダヤ系ドイツ人のブルーノ・ワルター(1876~1962)が演奏したとき、ナチスドイツのありとあらゆる嫌がらせがあったと言います。
ワルターが演奏するコンサート会場には、臭気爆弾が投げ込まれ、脅迫状が舞い込み、ナチス党員による咳払いや、わざと大きな音を立てて歩き回る音で妨害される。自身は暗殺されかけ、さらに長女の逮捕、次女は実の夫により殺害されてしまいます。
 
そんな状況下でも、ワルターは音楽を演奏し続けたのです。
 
それにしても3~4分も続く着信のマリンバ音はあまりにもひどすぎます。ギルバートさんの苦渋の判断だったと思います。
しかし、9番は最初から演奏して初めてその重いメッセージが伝わる作品。途中からやり直しをしようとすべては変わってしまうのです。
 
もしワルターだったらば、いや、マーラーだったら、そのとき演奏を止めただろうか。
ふと、そう考えました。
 
もしかしたら、音楽を最後まで演奏し続けたのではないだろうか。
そのような思いがこみ上げています。
 
・・・・・・・・
 
追記
近頃は、クラシックコンサートホールに携帯電話抑止装置をつけるホールが増えています。施設内に「圏外」を作り出すことで、着信音などの迷惑を防ぐ装置です。以前「究極の携帯カンニング防止装置」という記事で書きました。このような装置があれば、仕事が終わってホールに駆けつけたときに、あわてて何度も携帯の電源を確認する心配もありませんね。

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