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ライフワークとしての学びを考えます。

光があたればあたるほどその影も濃い

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「飛鳥へまだ見ぬ子へ」という本があります。
これは、若くして悪性腫瘍で亡くなった医師の手記です。
 
検査の結果、もう自分は長くはないことを知った後、自宅に帰り不思議な光景を見るのです。
世の中が光り輝いて見える。すべてのものが美しく光り輝き、妻も手を合わせたいほど尊く見えたといいます。
 
生死の境に立たされ、目の前が真っ暗になってしまうような体験をした後、まったく反対である光り輝く世界を見るという不思議な体験をするのです。
 
「光の当たる面が明るければ明るいほどその影は濃いものなんだよ」
音楽と人生の師でもある指揮者のY先生が私に言い続けた言葉です。
それは生きる意味においても同じことなのですね。
 
私は「幸せとは何か」「生きるとは何か」と自らに問うならば、両極を体験することではないかと思います。本当の真実は、体験された方でなければ分からないことであったとしても、極限までとぎすまされた感性と想像力において感じ取ることなのだと思います。
 
モーツァルトは、長調で明るい曲の中にも、深い悲しみを込めています。
特に晩年の死を意識したような時代の作品からは、笑顔なのに目に涙をいっぱいためながら疾走するモーツァルト、まるで天国への階段をかけのぼっていくようなモーツァルトの姿が感じられる。
音楽は、ただ明るくて楽しい、ただ暗くて悲しいだけではない。天才は、「音楽はそれだけではないのだよ」ということを私たちに感じさせてくれるのです。
 
11月14日日本経済新聞に伊集院静さんの記事が掲載されていました。伊集院さんは、仙台に住んでいて、東日本大震災被災者の一人として積極的に発言しています。その中で、深く心に響いた言葉がありましたので引用してご紹介します。

     ・・・・・(以下引用)・・・・・
 
悲しみがあるから、人は酔ったり、歌ったりしたとき、心から笑うことができる。生きるということは悲しみそのもの。でも悲しみを経験すると、人間には本当のやさしさが身に付く。そして悲しみにも終わりがやって来る。小説は人の人生を変えることはできない。でも読者の悲しみに寄り添うことはできる。
 
     ・・・・・(以上引用)・・・・・

私はそこに深い死生観を感じます。
 
悲しみにも終わりがやってくる。
 
そして、いつか永遠の静寂が訪れるのだと。

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