人は悲劇に感動する
作曲家、ロベルト・シューマン(1810~1856)の作品に、女声のための曲「女の愛と生涯」があります。
妻クララとの恋愛中に作曲され、「彼女から受けた霊感が作品を書かせた」とでもいうべきシューマンの最高傑作だと思います。
シューマンは、構成力を必要とするピアノ作品より、歌曲のような小品が向いていたものと思われます。同時期に書かれた、男声のための曲「詩人の恋」も素晴らしく、泉のように音楽のインスピレーションが湧き出ていました。
過去の画家たちがそうであったように、男性音楽家にとって女性の存在は、女神であり、ミューズそのものであったのでしょう。
「女の愛と生涯」は、ある女性の生涯を描く8曲の小品からなる組曲です。
初めて愛する男性にめぐりあい、結婚。愛児が誕生し、母親としての幸せを得ますが、突然の夫の死が訪れます。
最終曲は「今、あなたは初めての苦痛を与えた」と絶望の歌を歌うのですが、その後がこの作品の素晴らしさ。歌が終わったあと、ピアノだけが第一曲をひたすら回想するのです。なんというシューマンの筆の冴え。
この長い長いピアノの後奏を、歌い手は一体どのような表情で聴いていればいいのでしょうか。
私は今この作品を勉強しているのですが、あまりの内容の重さに練習後疲労感を覚えてしまい、しばらく何も手につかなくなってしまいます。
作品が自分の中に入り込みシンクロする苦しさは味わったものでないとわからないでしょう。
音楽とは違いますが、映画、「バットマン:ダークナイト」で、ジョーカー役を演じたヒース・レジャーは2008年1月22日に本作の完成を待たずに急逝しました。
どこからどこまでがジョーカーなのか自分なのか、分からなくなるようなあまりに危険な演技でした。
その狂気のジョーカーを見ていて、死の淵を覗き込むような気持ちがしたのを覚えています。
作品にとてつもなく深く入り込むことは、役者であれ、音楽家であれ、常にある種の危険をはらんでいるのだと思います。
シューマン自身、精神的な病が悪化し、ライン川に投身自殺を図ります。その後奇しくも「女の愛と生涯」の通り、シューマンはクララを残して亡くなってしまうのです。
常に正気と狂気の狭間にある創作活動から生まれる作品の数々。
しかし、その苦しみを乗り越えたエネルギーだけが人を感動させるのだと私は思います。