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「不幸の予想」と「安心の予想」

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とくだん信仰の自由にケチをつけるつもりはないのですが、いわゆる新興宗教の常套手段のひとつに「不幸を予想する」ことがあります。「××年には災いが世界を襲う」「このままではあなたに不幸に見舞われる」といって不安感を煽り、安心できる場所として新興宗教に招き入れるというものです。

一般論として不幸を予想することは、あまりリスクがありません。「不幸に見舞われる」と予想して、実際に不幸に見舞われなかったとしても、せいぜい「やっぱり何もなかった」と思われるだけだからです。もちろん、不幸を回避するために相当の投資をした場合には「必要ない投資だった」という批判が生まれるかもしれません。しかし、それは「投資によって回避できた」と言われるかもしれません。あるいは“予言者”は「私の力で不幸を回避できた」と言うかもしれません。また、たとえ低い確率だったとしても不幸に見舞われることがあれば、その人にとっては「予言者の予想した通りになった」と信頼してしまう理由になるかもしれません。宗教は信用してもらうことが何より重要ですから、新興宗教の勧誘のとっかかりが不幸の予言になるのは当然です。

逆に、安心を予想することにはリスクがあります。「安心です」と予測して、予想通りになったとしても、それを予言者の手柄だと思う人はあまりいません。よほどの事情がなければ、普通の人々は平常は問題なく生きているわけですから、誰かのおかげでそうなっているのだとは思いません(もちろん、神の御心という人もいるでしょうが)。しかし、「安心です」と予想したのに、不幸に見舞われた場合は予言者は大いに非難されることになります。

福島原子力発電所の事故で、東京電力も政府も責任を問われています。東京電力は、たんに予想するだけでなく安心への責任を負う立場ですから、事故が起きてしまった今、責任を問われるのは当然です。しかし、“加害者”とまで呼ぶ風潮はどうかと思います。東京電力にしろ政府にしろ、“後から考えれば”取れる対策はあったかもしれませんし、事故後にベストな対応が取れていたとは言えなかったかもしれません。しかし、この事故の直接的な原因は東日本大地震に他なりません。

今回の大地震は、津波によって1万5千人もの死者を出しました。「大地震が来ることを予想すべきだった」と思う人は、津波に巻き込まれる可能性が少しでもありそうな他の沿岸部に住む人たちにも転居するよう指示すべきだと思っているのでしょうか。あるいは今すぐ膨大な予算をかけてもっと高い防潮堤を建設すべきでしょうか。“田老の防潮堤”は「立派な防潮堤があるから安心して逃げ遅れた」とも伝えられました。東京電力に判断ミスがあったとしたら、それは万全の対策を取っているという自信(過信)があったからかもしれません。

そもそも電力会社が原子力発電に取り組むようになったのはオイルショックなどで多様な資源利用が求められるようになったという時代背景があります。電気料金は総括原価方式計算といって発電にかかる費用に一定の報酬を上乗せして決めるので、「原発の方が儲かる」わけでは本来ありません。火力発電だけを使ったとしてもコストを電気料金に上乗せすればよいのですから、電力会社が困るわけではありません。原発の地元が雇用の確保や交付金といった経済効果に配慮して意外に冷静なのとは対照的に、今、本当に脱原発したいと思っているのは、事故が起きた時のリスクを自ら取らなければいけないことがはっきりした電力会社なのではないかと思います。

コンピューターを使う際にウィルスやセキュリティ対策が必要ですし、戦争による惨事を避けるために防衛力は必要です。不幸の予想が必要ないわけではありません。しかし、原発事故の経緯で声高に不幸や危険を予想する人々を見ていると、勢いよく声を高めていられるのはその警告にリスクがないからではないかと思えてしまうのです。

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