電子ブックにおけるドン・キホーテは誰か
※(あまり)当たり障りのないことをこちらで、個人的なことを個人ブログで書いてきましたが、こちらの更新が途絶え気味なので、個人ブログの引っ越しもあり、内容によっては両方に投稿していきたいと思っています。「です・ます」調と「だ・である」調が混在することになりますが、ご容赦ください。できれば、過去分も転載する予定です。
磯崎哲也氏が「iPad対Kindle、勝負あり。そして出版の未来。」というエントリを書かれている。その結論として、電子出版の未来は、
「Apple一人勝ち」という面白みのないものになる。
と予想しているのだが、はたしてそうだろうか(以下、日本限定の話です、念のため)。
磯崎氏は冒頭で、
昔、無料のMP3の音楽ファイルが山ほど出回っていた時にはネットでの音楽販売を儲かる事業にするのは極めて困難と思われていたにも関わらず、Apple が iPod や iTunes Store を発表して、音楽を儲かるビジネスに変えてしまったことだ。
と書かれているのだが、それと同じように Kindle や iPad のような電子ブックデバイスが普及するだろうか、というところに最初の疑問がある。当時「山ほど出回っていた無料のMP3の音楽ファイル」を利用していた人なんて、社会全体からみればごく一部だっただろうが、音楽はすでにポータブルなものだった。Walkman(とくに Walkman II)が登場して以来、カセットテープや MD というメディアを使い、人々は家の外で聴きたい曲を聴いてきた。フラッシュメモリを使う携帯音楽プレーヤーは、音楽をポータブルにする便利な道具の新技術版に過ぎない。ラジオがすたれてきたというのも、音楽プレーヤーが普及していることと無縁ではないだろう。
今日、「無料のMP3の音楽ファイル」のように「無料のPDFの書籍ファイル」が出回っているわけではない。Scribd のようなドキュメント集約サイトや、hon.jp や fujisan.co.jp のような電子書籍・雑誌の販売(誘導)サイトはあるが、手持ちの書籍は音楽ほど簡単に“リッピング”できないからだ。書籍に“ポータブルの需要”がないというのではない。むしろ逆だ。書籍は道具を使わなくても、持ち歩くことができる。それでもなお、「電子的な書籍プレーヤー」(電子ブック)を使うメリットはどこにあるのだろう。
この点については、浅倉卓司氏が「電子ブックの優位性ってなんだろう」というエントリで考察されているのだが、実際には書籍の種類によっても優位性のポイントは異なってくるだろう(“電子ブック”ではなく“電子書籍”という文脈であれば、それは Kindle や iPad のようなデバイスを想定することなく、パソコン上で書籍を読みたい人という想定もできるが、それは脇に置いておく)。浅倉氏は「収納スペースが小さくて済む」という点を否定的に捉えられているが、これがなければ、そもそも iPad や Kindle のようなデバイスは必要なくなってしまう。(←これは誤記だそうです) 浅倉氏が挙げる収納スペースの利点は大きい。まさに電子ブックは何冊分もの書籍を入れておけるからこそ便利なのであって、そのものは1冊の書籍より重い(しかもずっと高い)からだ。そして、以前にも取り上げた電子辞書が400億円もの市場規模(JBMIA資料、PDF)を実現しているのも、収納スペースを大幅に減らしてポータビリティを高めているからだと言える。
電子辞書は、浅倉氏が挙げている「検索性」にすぐれていることも利点となる。辞書はまさに目的のものを検索することが重要なのだから、目次や索引といった印刷物の検索性の限界を超えられるのは大きなメリットだ。逆に、文学書ではそれほど検索性が要求されることはないだろうし、実際の文学書にも検索を容易にするために索引があるわけではない(ミステリーで「犯人の登場...??ページ」なんて索引が用意されていることはない)。
この点、辞書は電子化するのにもってこいの素材なのだ。電子ブックの起源をたぐれば、ソニーの「データディスクマン」(1990年)というデバイスにまでさかのぼることができる。20年も前の話だ。このときも、広辞苑や英和・和英辞典が付属していた。あるいは、シャープの「電子手帳」(1987年)にまでさかのぼることさえできる。辞書はICカードとして販売されていた。これは書籍の中でも「辞書」という分野だからこそ言えるメリットであろう。日本は「辞書」と「電子化」というものの相性の良さを見出して、それをビジネスに結び付けてきたのだ(辞書は文学書と違い出版社間の競争がある分野だともいえるのだが、その話は脇に置いておく)。「電子書籍で後れをとる日本」などという論調の記事には注意した方がよい。
浅倉氏は「文字を好きな大きさに変えられる」という項目で「自動組版」(文字の大きさに合わせて読みやすく整形すること)の重要性を挙げている。堀江貴文氏も「俺も電子出版の未来について語ってみよう。」というエントリで
大事なのは、iPad/iPhoneでもKindleでもその端末で読みやすい形態にしてから配信することだ。
という指摘をしているのだが、もっともだと思う。もっと言えば、書籍は書籍としてのサイズや分量を考えて作られているのだろうから、それが必ずしも電子ブックデバイスに適しているとは限らない。逆に、デバイスに合わせたコンテンツという意味であれば携帯書籍がある。。以前にも取り上げたとおり、携帯書籍は電子書籍市場の86%、400億円という市場規模にまで成長している(インプレスR&Dの発表資料)。2007年の書籍年間ベストセラー(文芸部門)の半数は、元々携帯小説だ(トーハン調べ)。
さらに言えば、携帯向けに開発されたコンテンツの市場規模は、今や4835億円にもなる(モバイル・コンテンツ・フォーラムの資料、PDF)。もちろん、これにはゲームや音楽も含まれるだろうが、書籍に特化した Kindle はともかく、iPad を「コンテンツプレーヤー」だとするなら、その役割はすでに日本の携帯電話が担ってきたのだ。「印刷物としての書籍」の電子化が進んでいないのは、そのままの形では携帯に向かないからだ。。「新聞も電子ブックに対応しろ」と言う人は、大手の新聞社が携帯向けに有料サービスを提供していることを知るべきである。
磯崎氏のエントリに戻ると、Kindle を次のように評価されている。
Kindleを実際に触ってみると、iPhone(3GS)を使い慣れた目には反応速度が遅過ぎて苦笑すらしてしまう。確かに「本を1ページずつ読む」のには十分かも知れないが、本のいいところは「パラパラめくれる」ところでもあって、次のページに行くのに数秒かかるようではイライラすること必至だ。
しかし、現実の電子辞書を見ればわかるとおり、「電子ブック」に必ずしも鮮やかで快適なレスポンスが求められるとは限らない。Kindle が目指すものは、Web ブラウジングもできるマルチツールではなく、「印刷物の代替」であろう。電子インクは液晶と違ってギラギラせず目が疲れない、あるいは書籍のようにバッテリーを気にする必要が(ほとんど)ない。文学書を読み進めるのであれば、「パラパラめくる」という必要もあまりない。キングジムのポメラは「ほとんど何もできないが、すぐに起動してメモできる」というメモ帳の代替として成功した。
問題は、音楽のように繰り返し聴くというものでも、辞書のように検索性が重視されているものでもなく、おそらく「一度読みとおすだけ」の普通の書籍を電子化してまで持ち運びたい要求がどれほどあるのだろうか、ということだ。ポメラはキングジムの目標の3倍出荷したそうだが、それでも10万台程度である(AllAboutより)。そしてコンテンツプレーヤーとしては、前述の携帯電話がある。RIAJ の統計によれば、、2008年の有料音楽配信売上実績905億円のうち、インターネットダウンロードとして計上される分は1割(90億円)に過ぎない。iTunes Store は、この一部だから日本の音楽配信市場でのシェアは数%に過ぎないのだ。
年間600万台以上も出荷する音楽プレーヤー(JEITA、2008年)の市場ですらこの状況である。Kindle の販売が100万台を突破したという話も聞くが(ソース不明)、日本でもせいぜいポメラ程度の成功しかおさめられないのではないか(もちろん無料配布すれば台数は増えるだろうが)。iPad も Slate デバイスとして成功するかもしれないが、iTunes Store の現状を見る限り電子ブックのためのコンテンツ市場を構築するというのは、少なくとも日本では厳しいのではないか。Kindle や iPad が、400億円という携帯書籍市場、あるいはモバイルコンテンツ全体の5000億円近い市場規模に挑戦しようというのであれば、それは風車の前のドン・キホーテに見える。私が見る限り、結論は「携帯一人勝ち勝ち」という面白みのないものになってしまうのである。
※あくまで電子ブックデバイスを論じているので、電子書籍化は進めてほしいと思っています。とくに技術書は検索したり、コピー&ペーストできることが大きく利便性を高めます。
※本エントリは、個人ブログからの転載です(多少、改変しています)。