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あこがれのノリックが逝ってしまった

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 ノリックこと阿部 典史が禁止区域をユーターンしたトラックと衝突してなくなった。

 私がLotusに転職して、新たなチャレンジを始めた直後、欠かさず見ていた深夜の番組で、ノリックが2輪のワールドグランプリで優勝するのを見て(リオ?スウェーデン? だったかな?)「彼も世界で頑張っている」と自分を奮い立たたことがある。 子供のような笑顔と英語でインタビューに応える彼は、いかしていた。

 私がオートバイに興味を持った片山 敬済以降は、バリバリ伝説という漫画の影響でオートバイがブームになった後も、世界で日本人が活躍することはほとんどなく、ケニーロバーツ、フレディスペンサー、短足マモラなど、バイクは日本製、ライダーは欧米人という時代が続いた。

 眠い目をこすりながら見ていたWGPで、平忠彦がサンマリノグランプリで表彰台に上ったのが数少ない活躍だった。 平は表彰台にあがったが、日本人が表彰台に上るとは予想しておらず、日の丸の旗が用意されていなかった。 それほど、めずらしいことになっていた。

 その後、125ccに日本人が台頭し始め、表彰台か転倒かと言われたシンデレラボーイの伊藤真一が登場したあたりから、500ccでも活躍し始め、ノリックがマイケルドーハンなどと互角に戦う時代になった。そして、ノリックは片山依頼の500cc優勝を飾った。

 今年は全日本に戻って相変わらずの活躍を見せていたのに、残念だ。

 彼は間違いなく一時代を築いた。 バリバリ伝説のグンのようだった。 私はあの激しい走りとヨーロッパの記者たちに笑顔でインタビューに応えるかれの顔を忘れない。

 関連投稿:トラパパさん「バイバイ、「ノリック」・・・おつかれさま。ありがとう!」

追伸

 私は中学3年の時に片山 敬済が世界グランプリで優勝したのをオートバイ雑誌とニュースで見て感激し(まだ、日本のテレビではやっていなかった)、16歳の誕生日からオートバイ(中古のマッハ3とZ250FT)に乗り、その後、筑波、菅生などでレースに挑戦していた(本線には出られなかったが、、、)。 オートバイ好きは、社会人になってからも続き、「バリバリ伝説」を読みながら、峠を走ったり、筑波のスポーツ走行を毎週予約して練習したり、アライレーシングスクールで技術を磨いて、KR250でノービスに挑戦していた。(NSR250R登場以降はさっぱりだったが) 結婚後は妻に中型免許を取らせてFZR400を買った。 今では、妻のために買ったビッグスクーターに子供達を乗せて映画に行く程度だが、子供達を卒業させたら妻と北海道でもツーリングしたいと思っている。

*8日11時 トラパパさんのリンク、トラックバック追加

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