グローバル化する中で日本人はどのようにサバイバルすればよいのか。子ども×ICT教育×発達心理をキーワードに考えます。

大震災! その時、石巻の通信インフラはどうなっていたのか

»

はじめに

3.11の大地震から約半年が過ぎました。時間は着実に過ぎていますが震災の爪痕はまだ消えません。2011年9月17日夜7時から放送されたNHKニュースでは「住民を守るために一人で警察署に残って亡くなられた警察署長のお話」が取り上げられていました。

特にメモをとっていなかったので曖昧な記憶になりますが、高橋さんというお名前だったと思います。正確な地名は忘れてしまいましたが津波の被害が大きかった東北の海岸から一キロの警察署でした。

「なぜ津波が堤防を突破したと連絡を受けたにもかかわらず署長だけが一人で署に残られたのだろうか」と思ったところ、生き残られた部下の方がこのように答えられていました。

「部下(十数人の警察官)が的確に住民を避難させられるように、指示を出すためには警察署に残って無線でやりとりする必要があったから」とのこと。署に残れば津波に飲まれる事を認識した上で、署長は住民の誘導を優先されたようです。あと4日で定年退職だったとのことでした。

毎日の生活に気を取られていました。ですが高橋さんという署長のお話をニュースで拝見して「時間は過ぎても忘れてはいけないことは世の中にたくさんある」と感じました。

さて、先日、このような本が発売されていました。
高橋みかわ 編著『大震災 自閉っこ家族のサバイバル』ぶどう社

宮城で被災した自閉症のお子さんがいるママ4人による大震災の記録です。編著者の高橋みかわさんは仙台在住、他の3人の方は石巻市在住とのこと。

ライフラインがすべて止まった中、自閉症のお子さんを抱えて現地でサバイバルをされてきた著者たち。ニュースでは報道されきれていなかった様々な事実が記載されていました。

仙台、石巻の大震災後の状況を「住人の目」から克明に記した記録であり、ライフラインや通信インフラの状況についても記されていました。記録として貴重なものと判断したため、「ライフライン」「通信インフラ」という面に焦点を当て、石巻の状況をまとたいと思います。

浅野雅子さん(石巻在住)の記録から抜粋した文章に私見を加えたいと思います。参考として宮城県石巻市の石巻駅周辺の地図を掲載します。

大きな地図で見る

石巻のライフライン/通信インフラは震災後、どうだったのか?

●浅野雅子氏(石巻在住)の記録より

「3月11日 その瞬間」より
車でS中に避難した。地域の指定避難所だった。パパから「非常時災害時にはS中で会おう」とも言われていた。家族にS中に避難するとメール。まもなく携帯も通じなくなった。
前掲本 P,85より引用

大震災のとき、各キャリアが70%の通信規制をかけたとテレビのニュースで観ました。津波の後に通信規制がかかったのかと私は思っていましたが、実際は津波が襲う前に携帯電話の通信規制がかけ始められていたようです。津波から逃げるときに携帯電話が通じなくなった方も多くいらっしゃったと思うと、無線の重要性を感じさせられます。

「3月11日 その瞬間」より
日和山の向に、煙、炎、爆発音。ラジオで、門脇小が火事だと知った。夜中鳴り続けるサイレン。眠れず一晩。

校庭は浸水が多く、校舎も一階は水没。孤立。雪まで降りだす。

海沿いのパパの勤務先の中学校に津波との情報が耳に入り、心配。無事かどうかもわからない。ただ祈るだけ。
前掲本 P,85より引用

筆者が津波から逃げて避難所に行かれた際の描写です。津波の被害だけでなく火事も起こり、雪までふりだす寒さだったことが読み取れます。家族の無事も連絡をとる手段がないためわからなかったことがわかりました。

「3月12日 もう待つしかない」より
情報はラジオだけ。ラジオが「どこの橋が崩れた、どこの町は全滅、どこの町では何百の遺体が漂流......」と伝える
前掲本 P,85より引用

震災の時に被災地でテレビを見ることができる人は少ないだろうと思い、私は携帯対応するように震災情報をまとめたサイトを作成しました。しかし、実際は被災地にいる方はラジオから情報を得られていたとわかりました。携帯電話から情報を得られているのではないかと仮設を立ててサイトを作りましたが、ラジオ局に情報を知らせていくほうが的確だったように感じました。

携帯電話は充電が必要な点と通信規制がかかると通信がしにくくなるため、大災害のときの利用について今後、さらなる対策が必要ではないかと考えさせられます。

「3月14日 パパの実家に避難」
登米は震度7の強烈な地震だったが、津波の被害はなかった。電気は止まっていたが水道は出た。石油ストーブがあったので、寒くはなかった。
前掲本 P,89より引用

通信インフラはライフラインの状況と合わせて検討すべき問題だと判断したため抜粋をしました。日常生活の中で電気がないと利用できないものが多いからです。登米は石巻よりも更に北、山寄りの位置にある場所でした。そのため津波の被害を逃れ、水道の利用が可能だったのではないかと推察されます。

大きな地図で見る

「3月15日 いつものけいと違うな」
じいちゃんが発電機で私の携帯を充電してくれた。充電はできたが圏外だった。実家の母や兄弟に連絡を入れることはできなかった。
前掲本 P,89より引用

3月15日(震災から4日後)はまだ携帯電話が圏外だったことがわかります。しかし翌日には携帯電話が通じる人も登場します。

「3月16日 おめえたちだけが我慢することはない」
午前中、役所に行けば公衆電話があるかもしれないと、役所に行ってみた。しかし、使える電話はなかった。(中略)女性職員の方が「電話はみんな圏外なの。だけどなぜか私の携帯だけ時々アンテナが立つの。お母さんの電話番号を教えてくれれば、様子を見ながら連絡入れてあげる」と言ってくれた。(中略)その方が母に電話してくれて、母は私たち家族の無事を知ったようだ。
前掲本 P,90より引用

役所でも使える電話がなかったという事実が私には衝撃的でした。役所には非常用の通信機器があるのではないかと思っていましたが、震災後まもない時期にはまだ配布されていなかったのかもしれません。

「役所の女性職員の携帯電話は時々通話が可能」いうことで連絡係になってくれたというのは重い事実だと思います。メールやTwitterなどのソーシャルネットワークではなく、通話で安否確認をしていたことがわかりました。

「3月16日 おめえたちだけが我慢することはない」
夕方、じいちゃんの携帯が鳴った。携帯が圏外ではなくなっていた。私のは圏外だった。じいちゃんの携帯を借りて実家の母に電話した。
前掲本 P,91より引用

3月16日(震災から5日後)は通話が可能になった人が増えたようです。わずか一日の差ですが、おそらく携帯電話会社の人の取り組みが結果として現れていたのではないかと考えました

「3月17日 息子は布団から出ない」
朝、突然携帯が鳴った。メールが数十件入っていた。数人に無事のメールを送信した。
前掲本 P,91より引用

3月17日(震災から6日後)は筆者も携帯電話の利用が可能になりました。数十件のメールは震災の時に安否確認として出されたものが、数日後の届いたのではないかと推察しています。携帯メールは数日単位の時差が生じる可能性があることを認識したほうがよいと考えました。

「3月18日 家の様子を見に行く」
自宅に着くと水はすっかり引いて、泥やごみがたくさん庭に残っていた。(中略)重いピアノも移動していた。電気も水道も止まっていた。
前掲本 P,91より引用

3月18日(震災から7日後)は登米から石巻の自宅に戻ることが可能だったことがわかりました。ライフラインは止まったままだったようです。ピアノはアップライトピアノであれば100キロ以上あるのではないかと考えられますので、かなり強い力がかかったことが読み取れます。

「3月18日 家の様子を見に行く」
みかわさんにメールをした。(中略)メールを打ちながら大声で泣いた。誰もいない、電気もない、真っ暗な部屋で大声で泣いた。(中略)すぐに、みかわさんから返信が来た。みかわさんがそばにいてくれることが実感できた。
前掲本 P,93より引用

みかわさんというのは今回取り上げた『大震災 自閉っこ家族のサバイバル』の編著者で筆者のママ仲間のことです。石巻の自宅に戻ったところあまりにものが散乱していたため、筆者が辛い感情を友人にメールで伝え、友人からの返信メールに気持ちが支えられた場面です。携帯メールが石巻でも通じていたという事実以上に、コミュニケーション手段としての携帯電話の重要性を感じさせられます。

「3月18日 家の様子を見に行く」
カーテンを開け、月明かりの中で探した。見つかった! これでラジオが聞ける。
前掲本 P,93より引用

電気が止まっていたため、月明かりの中でラジオを探されていたことがわかります。停電の中ではテレビを使用できません。電池で利用できるラジオが情報を得るための大切な手段だったことがわかります。

そして3月19日(震災から8日後)に、筆者は子どもたちを連れて登米(ご主人の実家)から石巻に戻られました。

「3月19日 先生が訪ねてきてくれた」
その日も電気はつかなかったけれど、部屋の中の温度は7度だったけれど、なんだかほわ~~んと暖かかった。
前掲本 P,97より引用

まだ停電が続いていたこと、気温が低い状況だったことがわかります。また、筆者たちが自宅に帰って感じた「安心感」も伝わってきます。

「3月20日 4人で家で過ごせるなんて」
消防本部前には給水車を待つ人が並んでいた。なかなか給水車は来ない。2時間近く待った。雪が降ってきた。(中略)結局、給水車は9時近くに着いた。持ってきた容器全てに給水してもらい、1人で持ち帰った。全部で10リットル。
前掲本 P,97より引用

石巻のみなさまが切実に給水車を待っていたこと、雪が降って寒い中、住民の皆さまが数時間、消防本部前で待っていたことがわかります。女性が 一人で10リットルを持ち帰るのはかなり大変な労働だったことと推察されます。

「3月20日 4人で家で過ごせるなんて」
配給は一日1回、並んだ人だけがもらえる。もちろんみんなで並んでもらった。クラッカーと高カロリーなドリンク。「明日も配給するから、1時に来てください」と町内会の方に言われた。
前掲本 P,98より引用

引用箇所では省きましたが公民館で配給が行われていたことが記載されています。3月20日(震災から9日後)に食べ物が一日一回配給されていたこともわかります。衣食住は生きる上で重要なものだと思います。大変厳しい状況だったことが読み取れます。

「3月22・23日 温かいカップスープを作った」
毎日、配給の列に並んだ。ありがたいことに、配給品は日に日に増えていった。毎回、カセットコンロのガスをもらうことができた。赤ちゃん用のおむつや粉ミルク、ペットフードの配給もあった。(中略)

やかんでお湯を沸かし、温かいインスタント味噌汁やカップスープを作った。息子に、買い置きしてあった天ぷらそばを食べさせることができた。
前掲本 P,98より引用

3月20日(震災から9日後)と比べて配給される食べ物の種類がかなり増えたことが読み取れます。ガスコンロで火を使えるようになったことも重要な点のようです。

「3月22・23日 温かいカップスープを作った」
ラジオから聞こえる訃報では時々、知っている人の名前が流れた。辛かった。でも確認したわけではないから信じられない。信じるわけにいかない。
前掲本 P,101より引用

3月23日(震災から12日後)の時点でも情報を入手する先はラジオだったようです。携帯電話は通話のために使われ、ウェブから情報を得ることは筆者の場合はおこなっていなかったようです。

「3月24日 4人で自衛隊のお風呂へ」
消防本部前で自衛隊による大浴場が設置されたと聞いた。(中略)自衛隊のテントに不釣合な「山形・花笠の湯」ののれんと、ハデハデのピンクの「女湯」ののれん。ぷっと笑ってしまった。笑えることが嬉しい。
前掲本 P,101より引用

お風呂に入ることができたのは3月24日(震災から13日後)だったことがわかりました。自衛隊による大浴場はNHKニュースでも観ました。お風呂が心身ともに癒し・歓びとなる様子もニュースで観ました。ライフラインが復活して石巻の皆さまが普通にお風呂に入ることができるのはいつなのだろうと、ニュースを見たときに感じていたのを記憶しています。

「3月25日 息子が吐いた」
突然、大量の嘔吐! (中略)車がないから病院に連れていけない。誰かに助けを求めることもできない。
前掲本 P,103より引用

筆者の場合は3月27日(発病から二日後)に学校に医者が来たと連絡をもらい、ふらふらの息子さんとともに歩いて学校まで行ったことが本に記載されていました。ちなみに 「車があってもガソリンを得るために5時間並ぶ必要がある」とニュースで見た記憶があります。そもそも車をながされてしまった、車がない場合はどうにもしようがない状況があるのだと痛感しました。

「3月25日 息子が吐いた」
真っ暗な中、懐中電灯のあかりだけの中の着替え。布団の取り替え。息子を安心させようと「大丈夫だよ」と言いながら。だんだんすごく腹が立ってきた。ムカついてムカついて仕方がなかった。大声で叫んだ。息子を抱きしめながら、娘の手を握りながら。
「震災のバカヤローーーーーーー!! 」
「停電のバカヤローーーーーーー!! 」
娘も泣きながら
「津波のバカヤローーーーーーー!! 」
「電気のバカヤローーーーーーー!! 」
前掲本 P,104より引用

3月25日(震災から14日後)の時点でも停電していたことがわかります。震災から二週間の生活の中で筆者が大変ストレスの大きい状況だったこと、どうにもならないとわかりつつ叫ばずにはいられなかったことは読んでいて辛かったです。どうにもできない自分がもどかしかったからです。ライフラインが全て止まることの恐ろしさを感じます。

「3月27日 医師が「もう大丈夫」と」
車を失った住民たちが自転車を使っていて、その自転車の盗難が多いと聞いていた。娘は「盗まれたら嫌だ」と、歩いて学校に行った。
前掲本 P,103より引用

車を流された方が多く、自転車が重要な乗り物だったことがわかります。自転車がない人は歩かざるをえないので、足腰が弱られているシニアの方にはつらい状況だったのではないでしょうか。

「3月27日 医師が「もう大丈夫」と」
あ! 携帯、充電しておかなきゃ。急いで手動の充電器をクルクル回す。このハンドル式の充電器、必死で4時間回してやっと電池が半分くらい充電される。クルクル クルクル、ひたすら回した。
9時半頃、学校の先生から携帯に電話。私が携帯で話している間、娘が充電器をクルクル回してくれた。ありがとう。
前掲本 P,103より引用

手動の充電器だと8時間回してフル充電になるらしいとわかりました。アナログな方法だと発電は手間暇が必要なことがわかりました。電池式の充電器がなくなってしまった場合に備えて、手動の充電器も保持する必要があるのだなと改めて感じますし、ハンドルを回す体力も必要なのだと感じました。

「3月27日 医師が「もう大丈夫」と」
「こんにちは~~東北電力です! 」
やった~~~! 電気来た!
「漏電の検査をします。少しお待ちください」。娘と抱き合って待った。(中略)
こたつのスイッチを入れて、ヒーターのスイッチを入れた。あったかい! うれしい! やった、やった! (中略)
テレビが写った~~~!!
でも、そこには、生々しい津波の映像が流れていた......。私たちは、3月11日から初めて、その壮絶で悲惨な映像を目にした。
前掲本 P,107より引用

この箇所を読んだとき、電車の中にもかかわらず涙が出ました。被災したみなさんが津波の状況を目にしたのは3月27日(震災から16日後)だった事実が重かったです。事実を映像という形で目にした時の石巻のみなさんの気持ちを思うと言葉が出てきません。電気の復旧に石巻の場合は16日間かかったことがよみとれました。

「3月28日 担任の先生が来てくれた」
朝起きて、一番に電灯のスイッチをパチっと、つくかどうか確認した息子。ずっと停電だったから、気持ちは「つけていたい」のだけれど、福島の原発の問題のこともあり、また震災前の贅沢な生活を悔いていたこともあり、「外が明るいうちは消そうね」というと、息子は自分で電灯を消した。
前掲本 P,108より引用

3月28日(震災から17日後)は停電が解消された後、電気が引き続き利用できていることがわかります。筆者が利用しているのは東北電力なのですが、福島の方を思って節電をするという箇所に心が痛みました。福島の原発の電気は東京周辺の方が利用しているそうですが、東北の方も節電してくださったのだと思うと言葉も出ません......。

「3月28日 担任の先生が来てくれた」
息子の吐き気はすっかりおさまり、熱も下がっていた。下痢はするかもしれないなと思い、多めにトイレ用の水を確保しようと、娘と交代で何回も給水に行った。今は、自衛隊の給水車が一日中、公民館前で待機してくれるので、列に並ばなくてもすぐ水を入れてもらえる。
前掲本 P,108より引用

自衛隊の給水車が安定的に水を供給していたことがわかりました。家庭用水道の復旧はまだのようです。

「3月31日 おばあちゃんがいた! 」
水道が復旧し、新聞も配達されるようになった。少しずつ生活がしやすくなっていった。
前掲本 P,111より引用

3月30日(震災から20日後)にようやく水道が復旧したことがわかりました。新聞の配達もされるようになったということは、印刷設備の確保や配達用の交通手段、道路の整備等ができたということも推測しました。

「4月1日 パパが毎日帰ってくる 」
夕方近く、仙台の義妹夫婦が来てくれた。「自分たちはもう使わないから」なんてきっと嘘だけど、軽自動車を私たちに使ってほしいと、車2台で来てくれた。義妹だって被災者だ。地震の自宅のマンションの水道設備が故障して、不自由な生活をしているのに。

でも正直、助かる。車があれば具合の悪いとき、病院に行くことができる。ありがとう。ありがとう。(中略)心配してくれる仲間がいて、助けてもらうことができた。このご恩を、これからどうやって返していこうか。
前掲本 P,113より引用

仙台で被災した義妹夫婦の心遣いで車を入手できたことがわかります。大震災で通信インフラもライフラインも壊滅してしまった中、人の支え合いによって生活をさせ、コミュニケーションをとり、インフラの復旧まで乗りこられた様子が伺えます。

おわりに

私の文章では主観も混じってしまい石巻の通信インフラの状況を知るためのデータとして客観性に欠ける面があります。さらに詳細な事実を知りたい方は、底本にした『大震災 自閉っこ家族のサバイバル』をご一読いただければと思います。

事実を知ることによって、今後、再び大震災が来たときにどうしたら通信インフラが保っていけるのか、ライフラインの復旧を保てるのか、対策を立て対応をするヒントになると考えています。

私は大震災のとき「東北でスマートフォンを利用している人は少ないだろうから、被災された方は一般の携帯電話で情報入手をしているのではないか? 」と仮設を立てて情報発信のサイトを作ったのですが、実際はラジオで情報入手をされていたことがこの本から理解できました。

※私が行った取り組みの詳細は「携帯未対応サイトを携帯対応にするために-情報格差の解消のために-(ITmediaオルタナティブ・ブログ)」をご参照ください。

ラジオから情報入手をされていたという仮説は前掲本の筆者の事例から判断したことなので、石巻のみなさま全てがラジオから情報入手をしていたとは言い切れません。茨城など別な地域ではラジオだけでなく携帯電話から情報を入手されていた方も多くいたかと推察されます。

事実を見つめていくことによって通信インフラやライフラインの問題を改善していくことも可能ではないかと考えています。この記事を読んでくださったみなさまのご参考になれば幸いです。

この記事はデータとして活用できるように、今後、表などを追加してさらに改稿したいと考えています。(2011年9月20日 追記)

関連記事

  1. 大震災! その時、石巻の通信インフラはどうなっていたのか
  2. デジタルとアナログの融合が被災地の絆をつなぐ-緊急時に情報伝達をどう行うか-
  3. 幕末、安政大地震から奇跡の復興を果たした紀州 広村の商人・濱口梧陵とはいかなる人物か
  4. 幕末、安政大地震から奇跡の復興を果たした紀州 広村の商人・濱口梧陵とはいかなる人物か(続編)
Comment(0)

コメント

コメントを投稿する