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日本や日本人って何だろう。改めて「海外」を考えるヒントを身近な話題から

「カイゼン」が当初、ガイジンに通じなかった理由

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TOYOTAのリコール問題は制裁金の支払いで決着がつきそうなものの、トヨタ側の主張を理解してもらうための折衝が進んでいるようである。

この話を聞いて、留学中に受けていた授業の題材になっていた「NUMMIにまつわるTOYOTAとGMの関係、米国文化と融和するためのトヨタの苦労話」のことを思い出した。

それは、約2年にかかるExecutiveMBAのカリキュラム全体の最初のコースとなっているEssentials of Effective Leadership という授業で取り上げられていたケースである。
このコースはTeamや組織Leadershipとか、Change Managementに関する授業であった。

この授業で感心したことのひとつが、TOYOTAとGMの合弁事業であるNUMMIの歴史に対する米国側の見方(研究成果、ケースの豊富さ)である。
素直にTOYOTAに学ぶという以外に、GMはなぜ学べなかったのか?という視点の多いことが、非常に興味深かった。

当時、「カイゼン」が欧米人の目に奇異に映った理由であるが、

  • 目標がどんどん動くという考え方が受け入れられない。
  • Goal Setting をして、達成したら報酬。いったん精算のハズ。

というのが、米国人の理屈であった。

  • 目標値は、評価が行われるまで動かないのが当たり前
  • 評価の結果としてのrewardが出ないのに、何のincentiveでもって、更なる高い目標にチャレンジしようとするのか?
  • 日本企業の同質的な過当競争体質が原因で、そういう性癖になっているのではないか?

という反応だったようである。「こういう反応の方がもしかすると主流なのかも知れない」という感覚は、アウェイに出て行って多国籍の人種の中で揉まれていてこそ培われる強みである。

成果主義の人事制度などを考えている視点では、今でも「なるほど」と思えることが多く、「なぜ、今まで自分は疑いもなく納得できていたのだろうか」と考えてしまった。

今でこそ、ビジネススピードが速い上にGlobal競争なので、「moving targetは当たり前。Targetの見直しは頻繁に変わるもの。PDCAサイクルが早くまわるだけ」という感覚は欧米のビジネスマンの間にも浸透しているようだが、20数年前の1980年代後半にはなかなか受け入れられなかったようだ。

日本人の中では当たり前の「常に最善を尽くし続ける」というcultureが受け入れられない理由として、私自身は、基本的に「仕事そのものが目的か・手段か、”志”にまで昇華されているか」という労働観・人生観のようなところにまで立ち入らないと人の行動は変えられないものなのだ。。という認識を持つに至った。

ケースに書かれていた内容によると、NUMMIを設立するにあたり、トヨタ側は入念な調査を行い、GMの中でも工場閉鎖に追い込まれたWorst工場である場所を敢えて選び、「落ちるところまで落ちたから、俺たちはなんでもする」という readiness of changeができていた場所を選んだということである。

今、時代は進み、NUMMIからの教訓を学び切れなかったGMは、破産に至った。毎年何人もの幹部候補生が本社からNUMMIにやってきたにもかかわらず。。
GMだけでなく米国の自動車業界全体が、ガソリン馬鹿喰いのSUV市場中心の自国市場だけを見ていたが故に、総崩れの状態になった。そして昨今、TOYOTAそのものが、「世界一になった慢心によるリコール隠し」のような批判にさらされつつある。。

こうやって当時を思い出していると、日本という国が、GMや米国自動車産業界の姿とダブって見えてきた。
「韓国や中国に学べ」という論調も出始めて来てはいるが、「今まで通りのルールで自国市場だけで延命できたら、、」と思っている「隠れ抵抗勢力」がどれほどいるだろう。

形式的にはSamsung研究などを始めるが、「やっぱり日本は違うよ」などと自分のルールにこだわってしまうことはないだろうか?我々日本人は、もっと「落ちるところまで落ちないと変われない」のだろうか?

「自分自身も、いつのまにか”隠れ抵抗勢力”のような振る舞いをしていたり、そのような扱いを受けたりしているかも知れない」と身を引き締める、今日この頃である。

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