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日本を環境立国にするために、ITベンチャーを飛び出して起業しました。

3.11 つくば市から帰って来たドキュメント

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未曾有の大災害に見舞われた東北・北関東の皆さまに哀悼の意を申し上げるとともに、私たちに課せられた使命として新しい社会をつくっていく重責を受け継いだと、想いを新たにしております。


11日当日、私は仕事で茨城県つくば市におりました。昼過ぎに大きな揺れを感じて、仕事を中止して係員の指示に従って避難しました。その後東京に戻ろうと思いましたが、つくばエクスプレスをはじめとした交通機関は軒並み動いておらず、いったん市内の小学校に避難して復旧を待つことにしました。


そのときはまだ状況を把握しておらず、すぐに鉄道が復旧して帰れるようになるだろうと考えていました。でも、小学校のテレビを観ていると、様々な被災地の窮状が明らかになってきます。それと同時に、つくば市内でも停電や断水が起こっているところがあったようで、近隣住民の方々も次々と小学校に避難してきました。小学校の先生方が避難してきた方々の面倒をみて、下校が遅れている児童たちに声をかけていました。


夜になって空腹になってきたので、食料を調達しようと街に出ました。でも、そこで見たのは真っ暗で信号も点いていない市街で、どのお店も軒並み閉まっています。かろうじて見つけたコンビニでパンを2つほど買い、寒さをしのげる場所に行こうと歩いていくと、暗闇のなかでキャンドルを焚いているホテルが目に入りました。


オークラフロンティアホテルのロビーでは、外国人を含めた避難客が集まっていて夜を明かすための準備が始まっていました。部屋は満杯になっていたようですが、ロビーに集まっていた人たちにもホテルからは毛布や布団が貸し出されて、とりあえずの寒さはしのげる状態になりました。その日はなかなか寝付けなかったのですが、明日以降の体力を温存するために眠ることにしました。


翌朝、早くに目が覚めました。すでにロビーでは何人かの方がテレビを囲み、被害がひどかった地域の映像を食い入るように見つめています。正直、これほどまでの大惨事だったのだと認識したのがこの時点でした。建物は崩壊し、津波で内陸部までが押し流され、海辺の街が消失している映像を観て、はじめてこの震災の影響範囲の大きさと被害の深刻さに驚きました。


とりあえず、携帯電話の充電がなくなっていたので、ドコモショップの開店を待って充電してもらうことにしました。停電は復旧していたのですが、相変わらず断水は続いており、飲食店などはシャッターを閉めたままの状態になっていました。スーパーなどには長い行列ができており、私は食料を調達することは断念して、急ぎ東京に戻るための手段を探すことにしました。


つくばエクスプレスは相変わらず復旧の目処が立っていませんでした。取手駅まではJR常磐線が動き出していたようで、つくば駅前から取手駅まで臨時バスが運行されていました。長い列に1時間ほど並び、満員のバスに揺られてまた1時間ほどで、取手駅に到着しました。取手駅では、つくば駅よりも数倍の人たちが以北に帰るためのバスを待っており、東京からの帰宅難民も相当数いたことが確認できました。


取手駅からはがら空きの逆方向の電車に乗って、東京の自宅に戻りました。福島の原子力発電所が急停止した報道が始まっており、何だか長い戦いになりそうだな、という予感を抱きながら、疲れた身体をベッドで休めました。


ある意味、自分も被災者だと思っていました。でも、私には帰れる場所があって、多くの方々の善意によって夜を明かすことができた幸運を実感しました。それとともにこの災害に対して、できることをして復興のお手伝いをしていこうと決意いたしました。


週明けの14日には、緊急イベントとして「YES!ナイト〜東日本巨大地震 僕らにできること」の運営のお手伝いをしました。


一般市民の私たちが、初動期にできることは義援金を送ることぐらいです。でも、復興に立ち上がったときに、この大災害から新しい日本の再生がはじまったと言えるように、未来に希望を持って新しい社会を築いていくことこそが、最大の支援になります。財政も厳しい、エネルギー供給の転換も余儀なくされる、そんな条件を世界に先駆けて省エネ防災社会を構築していくかの知恵に変えていきましょう。


冬のない、春はないのです。



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