「底辺校出身の田舎者と絶望」の議論をロジック図解で交通整理
わかりにくい情報/議論を分かりやすくする、ロジック図解コンサルタントの開米瑞浩です。
1週間ほど前から「「底辺校」出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由」という記事とそれに対する反論/批判が話題になっています。
私は最初の阿部氏の論考を非常にリアルな現実を伝えてくれるものとして受け取りましたが、それに対する反論/批判もまた殺到しているのを見まして、ここはちょっと外野から交通整理をしておこう、と考えました。
以下、ちょっと前置きが長いですが、まずは両者の論考以前に問題認識の構図を整理しておきましょう。
まず議論の前提として「市」というものをこういう形でイメージしてください。
「市」と言ってもその都市化割合は大差があるもので、市の領域は「市街地」「郊外」「郡部」の3種に分かれると考えてください。「市街地」は土地のほとんどが住宅や商業/産業施設で埋まっている地域、「郊外」は市街地の周辺である程度人口密度の高い地域。「郡部」はもともと「市」には入っていなかった近隣集落が町村合併などの行政上の都合によって「市」に編入された地域です。「郊外」は、小学生が徒歩でも頑張れば市街地に遊びに行けるぐらいの地理感覚なのに対して「郡部」ではそれは無理です。
ただ、今後の議論の上では「市街地」と「郊外」を分けてもあまり意味がないので今後は「市街地」に郊外も含めて考えます。
一般に、書店/CD屋/美術館/博物館/大学などの文化施設は「市街地」にあります。
その上で、「子供」が「文化施設」、たとえば書店にアクセスする場合にどんな径路があるかを考えましょう。高校生は子供と大人の中間ですが、議論をわかりやすくするためまずは小学生ぐらいの子供を想定して考えてください。
すると、東京・市街地・郡部の子供達の間にいくつかのギャップがあることがわかります。
この図の青い矢印①、②、③は「書店」へ行く手段と考えてください。市街地の子供は ①自分で徒歩で書店に行けます。しかし郡部の子供は ②自力では行けないので ③大人に連れていってもらわなければなりません。
また、「行きたい」と思うためにはその前に「子供に興味を湧かせる刺激」が必要です。それが④~⑦です。④は子供が直接書店を見て「行きたい」と思うこと。⑤や⑥は大人の言葉、つまり「行ってみる?」といった誘いを経て行きたいと思うことです。郡部の子供には④はありません。
また、「大人の言葉を経由した刺激」において問題になるのは「大人」の多様性です。一般に「郡部」の大人には多様性がありません。郡部というのは人口の8割が農業だったり漁業だったりと特定の産業に従事していることが多く、変化が乏しく学歴を必要としない社会を前提に生きていること多いためです。
したがって、⑤と⑥の間にもギャップがあります。
さらに視点を東京に向けてみますと、東京は(東部に限定すれば)全域が市街地のようなものです。そして地方都市とは比べものにならない大書店と多様な産業があります。つまり 文化施設の規模(⑧)、人の多様性(⑤⑥⑦)、の両面において地方都市とはやはりギャップがあります。
さて、地方と都市の問題をこのように構造化したうえで今回の阿部幸大氏と西智宏氏の論考を見てみましょう。
ただし、どちらも非常に長いのでここでは一点についてのみ取り上げます。
まず阿部氏の最初の論考はこちら。
釧路のように地理的条件が過酷な田舎では「街まで買い物に行く」ことも容易ではないので、たとえば「本やCDを買う」という日常的な行為ひとつとっても、地元の小さな店舗で済ませる以外の選択肢がない。つまり、まともなウィンドウ・ショッピングさえできないのだ。
したがって、私が関東に引越して自宅浪人しはじめたとき、まっさきに行ったのは、大きな書店の参考書売り場に通いつめることであった。見たこともない量の参考書が並んでいる東京の書店で、はじめて私は「釧路では参考書を売っていなかったのだ」ということを知り、悔しがったものである。
この記述は次のように分解できます。
(a)釧路は地理的条件が過酷な田舎である。
(b)地理的条件が過酷な田舎では「街まで買い物に行く」ことは容易ではない
(c)「本やCDを買う」という日常的な行為も地元の小さな店舗で済ませるしかない
(d)筆者が関東に引っ越した時はまっさきに大きな書店の参考書売り場に通いつめた
(e)東京の書店では、見たこともない量の参考書が並んでいた
(f)そこではじめて筆者は「釧路では参考書を売っていなかったのだ」ということを知った
この中の(a)(b)は市街地と郡部の距離ギャップ、つまり①②③のギャップを語っています。
(c)~(f)は⑧の文化施設規模ギャップを語っています。 その他、引用した部分には入っていませんが、④~⑦の情報コミュニティギャップを語っている部分もあります。
これに対する反論の中でブログとしてまとまって書かれている西智宏氏の指摘はこちら。
その前提となる釧路市で、筆者の通った高校での大学進学率が約85%、高校から徒歩圏内に大型書店や大型CD店があり、美術館や博物館があり、何より高校の図書室に受験に必要な各大学の過去問が揃っている、という事実があるのだから、
「文化と教育への距離が絶望的に遠いがゆえに、それらを想像することじたいから疎外されている」
という主張は通らなくなる
この記述は次のように分解できます。
(g)釧路市で阿部氏が通った高校の徒歩圏内に大型書店や大型CD店、美術館や博物館がある
(h)高校の図書室には受験に必要な各大学の過去問が揃っている
(i)「文化と教育への距離が絶望的に遠いがゆえに、それらを想像することじたいから疎外されている」という主張は通らない
しかし(g)の指摘は①を語っているだけで、②や③については何も言っていません。阿部氏の立論の本題は地方都市の一般論としての①②③の現実を指摘することですので、それに対して「高校生の時の阿部氏は①の環境にあったはずだ」と論じるのはあまり意味があるようには見えません。
また、「釧路にも大型書店がある」という指摘も、阿部氏が語っている⑧のギャップを否定できるとは思えません(否定するつもりもないでしょうけれど)。いくら「大型書店」と言ったところで、東京の大書店とはやはり何倍もの規模ギャップがあるのは明らかですので、ここは「大型書店」という言葉の定義を厳密にすればすみます。
実のところ、西氏も反論の後半では④~⑦の情報コミュニティギャップを語っていて、問題の本質はそちらである、と力説しています。阿部氏もまさにそれを指摘しているので、問題意識の本質は同じなのではないか、と私には思えるのですが、それがなぜこのようにこじれているのか、ちょっと理解に苦しむところです。