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今日から社会人になる君たちへ、あるいは問いも答えもない世界へようこそ

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新社会人の皆さん、ようこそ。

無限とも思えた白紙の学生時代を使い切り、これからは辛く厳しいお仕事の世界に入る訳です。
まあ、ブルーだよね、普通の人は。たまに「仕事を早く覚えたくてウズウズしてます」というような意識高い感じの学生さんもいるけど、少なくとも僕はそうでなかったので、ブルーな人の気分は分かる。

ところで、会社に入って色んな人と出会い、周りを観察する余裕が出始めると、「仕事が面白い!少なくともドラクエするより仕事をやってしまう」と思っていそうな先輩が、そこそこいる事に気づくかもしれない。もちろん会社や職種にもよるが、もしステキな会社に入ったのであれば、結構な割合でそういう人がいる。

僕自身はそこまで仕事だけが好きな訳ではなくて、自転車乗ったり家でウダウダするのが大好きだ。でも、仕事がドラクエより面白い、という人のことを「社畜、乙!」と思う訳でもない。
仕事がすげーおもしれー、という感覚もよく分かるからだ。
別に仕事大好きな社畜になれ、とは言わないけれど「なんでそういう人がいるのか?」について、少し考えてみて欲しい。
 
 
 
僕の考えでは
「問いを自分で立て、答えを自分で探すのって、実際すごく楽しいから」
だと思っている。
ちょっと、これまでの自分を振り返ってみて欲しい。
何か知的な事に取り組む時、必ず誰かが「問い」を作ってくれていたのではないだろうか。そして、「問い」には必ず「答え」があったのではないだろうか。

例えば、
問い:鎌倉幕府が出来たのは?
答え:1192年
みたいに。
漢字のテストでも微分積分でも同じだ。

これは、
・誰かが用意した枠組みに乗っかり
・それを習得して
・既に存在している答えをいち早く探す
というゲームをやっていた、とも言える。
ドラクエⅠで言うと「ラダトーム城のどっかに隠してある太陽の石を探す」みたいな話だ。(新社会人向けとしては比喩が古すぎたか・・)
 
 
決定論的世界、と言ってもいいかもしれない。
誰かが問題を用意する。
君はそれを解く。
正解は君が解こうが解くまいが既にあるし、とっくに決定済みだ。
君が何をしてもしなくても、鎌倉幕府の成立は1192年だし、ドラクエのゲーム構造は変わらない。(鎌倉幕府については近年異説が出ているが、またそれは別の話)

テストの世界に15年以上も浸ってきたおかげで、この決定論的世界観は、たぶん君の考え方に染み付いている(もちろん僕にもだ)。
 
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だけど、「仕事おもしれー」と感じているひとはきっと、違った風景を見ている。
「問い」を自分で探し、答えももちろん自分で探す世界だ。

自分で探すのだから、「問い」はなんでもアリだ。
「このクソ面倒くさい作業を、やらずにすむ方法はないだろうか?」でも、
「良い製品なのに売れない。あと、何が足りないのだろうか?」でも、
「このお客さんに喜んでもらうために、僕ができる事はなんだろう?」でもいい。
そしてこれらの「問い」には、絶対正しい正解はない。
上司や先輩は君よりも「それっぽい答え」は持っているかも知れないが、それが正しいという保証はない。

だから、誰かに正解を教えてもらうのではなく、googleにキーワードを打ち込むのでもなく、自分で考えたり、試したりするしかない。
この、「自分で問いを見つけ、自分で模索する」というのは、なぜだか知らないが、とても楽しい。たぶん、オンリーワンな世界だからだ。
模索の中身は「隣の部署にお願いに行って、イレギュラーがある時には声をかけてもらうようにしたら、ミスが激減した」とか、そんなに大したことじゃなくたっていい。
中身の凄さではなく、姿勢の問題なのだから。
 
ふと立ち止まって考えてみると、自問自答のどこが楽しいのかナゾだ。
正解がないのに答えを探すことのどこが楽しいのかナゾだ。
でも、楽しい。
そういう風にできている。
 
 
もちろん、全ての社会人がこういう風景を見ている訳ではない。むしろ少数派だと思う。自分で問いを立てないほとんどの人は、そこまで仕事が楽しくないだろうと思う。だから仕事以外の趣味とかデートとか家庭とかに喜びを見出す。
全然悪いことではない。むしろ健全だ。

でもさ、僕は思うんだよね。
「面白味を感じないで過ごすには、1日のうち、仕事をしている8時間とか10時間って、長すぎね?」と。
今、長時間労働が問題になっている。けれども、残業全くしなかったとしても、つまんない事をして過ごす8時間はやけに長い。
そして、人生で大きな割合を占める仕事時間を、他の時間を楽しむための「捨て時間」にするのは、あまり上手い作戦とは思えない。
 
 
この文章を読んでいる人のウチの何人かが、「自分で問いを立てて模索するような姿勢で仕事をしたい」と思ってくれるかもしれない(思って欲しい)。

でも、最初のウチは、誰かが立ててくれた「問い」に答えまくることもしなければならない。仕事に必要だから簿記の知識を身に付けるとか。「このメモ、パワーポイントで清書しておいて」とか。
仕事だからそういうのも必要だ。でもそんなのは、これまでのお勉強で散々鍛えてきた「問いも答えもあるモノを、高速で身につける能力」で、バリバリこなせばいい。大学受験なんて、それを鍛えるためにやったようなものなのだから。

でも、バリバリこなしているのと同時に、「自分が立てた、自分だけの問い」は持ったほうがいい。
そして少しづつそれについて考え、学び、模索する。
どんなに忙しくても、その習慣を捨てないようにすること。
 
もちろん、模索していると上手くいかない事も沢山ある。というか、模索しているからこそ、沢山の上手くいかない事を自分で作ってしまう
「お客さんに喜んでもらうためにやったことが裏目に出て、上司に叱られた」とかね。「お前はまず、言われたことだけやっとけ」とかね。
上手くいかないとしんどい。そんなの、当たり前じゃないか。

でも、もしうまくいかなくても、与えられた事をこなすだけよりは、ずっと楽しい。自分で立てた「問い」だから。
そして模索した結果、少しでも手応えがあるともっと楽しい。
 
 
最後に、僕自身の話をする。
僕は社会人としてのスタートはプログラマー、SEだった。
そして、配属された最初のプロジェクトで
「どうしてプロジェクトって、こんなに上手くいかないんだろう?みんなだって一生懸命やってるのに」
「どうやったら、プロジェクトを成功に導けるんだろう?」
という問いを立てた。

今から振り返っても、この「問い」は中々厄介だった。17年経った今でも、完璧には正解は分からない。いまだに模索している。

でも、僕はこの問いを持ったおかげで、今でも自分で「ああでもないこうでもない」と考えることができる。
仲間と議論できる。
「こんなことをやってみよう」とチャレンジできる。
いまだに新しい発見がある。
だから、仕事が楽しい。

少なくとも家のんびりしたり、自転車乗ったりするのと同じくらいは。

ようこそ、問いも答えも自分できめる世界へ。




※2013/6/7追記
決定論的世界観の例として1192年(良い国作ろう鎌倉幕府)を出しましたが、読まれた方からご指摘をいただきました。

鎌倉幕府成立年について、日本史研究者の間で異論が出ているのは知っていたのですが、もはや1185年成立説の方が定説となり、書き換わっている教科書も出ている様です。事件が起きた年が間違っていたのではなく、「何をもって幕府成立とするか」という定義の問題ですね。

そして素晴らしいのは、「以前は1192年だったが、近年異論があり・・」といった経緯を小学生に説明している先生もいらっしゃるとのことでした。
「歴史年号と言えども、解釈や議論の余地があり、変更されうるのだ」という話は、小学生には少し難しいかもしれないですが、貴重な学びになるでしょうね。

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