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あるいはファシリテーションが得意なコンサルタントによるノウハウとか失敗とか教訓とか

プレゼンで普通に話す、あるいは放送大学という反面教師

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★放送大学(ラジオ版)のカオス
車のカーラジオがなぜか放送大学にチューニングされていて、最近車に乗るときは放送大学の講義を聴いている。
「不登校児童への教育」「政治学にはなぜ定番教科書がないか」「良い文章の書き方」などなど、普段なら考えもしないような多様なテーマについて、入れ替わり立ち替わり、ただで講義をしてくれる。
他のチャンネルにしてもいいんだけど、何となく。車にはたまにしか乗らないし、普段関心がないことについて聴くのは苦痛ではないし。

しかし、放送大学をずっと聞くことはすなわち、大量の「棒読みスピーチ」を浴びる経験である。
だから「なぜスピーチ、プレゼンにおける棒読みがつまらないか」を運転しながらよく考える。昔から、はずれのトレーニングやセミナーに参加すると「なぜこの講演はつまらないか」を研究して、時間投資の元を取ることにしているのだ。
ここで少しその成果を披露したい。

★つっかえの効用
普通、僕らが話すときって、「えーっと」「つまりですね、」「・・なんですよねぇ」といった、あってもなくても良いような言葉や、数秒の沈黙が挟まる。もちろん言い間違えや、どもりもある。

それに対して、棒読みはよどみない。
もちろん、放送大学で原稿を棒読みする人はどこかの先生である(どうせ読むだけなら、いっそのことアナウンサーに任せればいいのに)。だから、棒読みにもうまいのと下手なのがあるのだが、どちらにせよ上記の、どうでも良い言葉やつっかえがない分、総じてなめらかだ。

放送大学を聴いていて実感したのは、こういうどうでも良い言葉やつっかえの大事さだ。
僕らは生まれてからずっと(大げさに言えば500万年くらいの間)、人の言葉から色々な情報を読みとる訓練をしてきた。だから多分、つっかえからも、何かを読みとっている。
例えば「ここでこの人は感情の揺れがある」とか「大事だと思っている何かを必死で言葉にしようとしているんだ」とか。
無意識のうちにその手の情報で補足しながら聴く方が、単に情報だけ受け取るより、頭に入るに決まっている。

★どうでも良いところは簡単に
どんなスピーチでも文章でも、「キーワード」と「単なるつなぎの言葉」のメリハリがある。
キーワードなのであれば、ちょっと難しい熟語でも横文字でも使えば良いと僕は思う。例えば「費用対効果分析」「ファシリテーション」とか。
この小難しい言葉がキーワードなのだから、まずこの中身は理解してね、と身構えてもらうためにも。

でも、単なるつなぎの言葉はなるべく簡単な言葉であるべきだ。例えば放送大学の棒読み原稿にはよく、
「○○という考察が得られる背景としては、△△の段階的解消ともいうべきアンチテーゼが内包されていると言ってもあながち間違えではないと考えられます。」
みたいな言い回しが出てくる(もちろん、テキトーな例ですよ!)。

キーワードじゃないところにこういう言い回しを使うと、聴いている側としては、そこにも「理解するためのリソース」を投入してしまう。その分、キーワードへの注意力は散漫になる。
メリハリがなくなるから、すごく平坦なスピーチに聞こえる。
ずーっと難しい。そしてずーっとナニ言っているかよく分からない。または、分かるけど頭に残らない。

普通の人は話し言葉では、余り難解な言葉は話さない。でも文章を棒読みすると、こういう「難解な文章の悪いところ」をそのまま引きずってしまうことになる。

これの変形として、キーワード以外のカタカナ言葉が多い、というものある。
「インセンティブが求められます」とか。
これは放送大学以上に、僕らコンサルタントの病気なのだが、キーワード以外にも使ってしまうことで、話し言葉・書き言葉共に、とても平坦で「ささらない」ものにしてしまう。これについてはまた今度。

★あなたは何者で、何に関心があるの?
誰かの話を30分以上聴くって、話し手に関心がないとなかなかできない。話し手への興味は、注意を向け続ける原動力になる。

だから、いくら講義といえども
「僕は、ここのところがとても不思議なんだよね、ココこそが、この学問の肝じゃないかと思っているんだ」
といった、話し手の感情を混ぜた方が絶対にいい。

棒読みに一番欠けているのは、言うまでもなくこの「話し手の感情」だし、それはモノを伝える上では致命傷である。

別に話し手の感情を伝えることが目的なんじゃない(本来、講義にそれは不要かもしれない)。
そうではなくて「内容を伝えるためには、話し手の感情でドライブする必要があるから、感情を込めなければならない」という理屈である。

大昔、生物の先生が「いいか、おまえら、これがDNAだ。これこそが生命なんだよ!」とビーカーを片手に叫んだのをとても良く憶えている。生命の神秘に科学が迫ったことへのリスペクトにあふれた言い方だった。
彼の感情がこもっていたからこそ、25年たっても憶えているのだ。
ちなみに、僕と親友は文学少年だったので即座に「そんなのは生命じゃない。ただの入れ物だ」とつぶやいたのだが。

★あなたは?
このことは別に、放送大学だけの話だとは思っていない。
セミナー会場で聴かれるプレゼンの7割はこういう話し方なんじゃないだろうか。程度の差はあるし、最近は少しずつ良くなってきた気がするけども。

もちろん、流暢にしゃべるスピーカーはたくさんいる。でも残念ながら「上手な棒読み」になっているケースが多いのだ。事前に一所懸命練習したんだろう。おかげで流暢にはなったし、時間ぴったりだ。でも聞き手の頭に入ってこない。

ラジオ版放送大学よりも、セミナーでのプレゼンが少し有利なのは、パワーポイントがあること。講演者の話が棒読みで聴くに堪えないなら、来場者はあきらめてパワーポイントを読むことに専念する、という道がある。
まあ、そういう講演は、パワーポイントも似たり寄ったりの時が多いけれども。

もしあなたが前回のプレゼンテーションで、あらかじめ書いた原稿を棒読みしていたのならば、鏡を覗くような気持ちで、放送大学ラジオ版を聴いてみてはいかがだろうか。

最後に。放送大学を特別に揶揄したいわけではありません。だってこの国では首相ですら棒読みなのですから。放送大学が良いのは、サンプルが豊富ということ。
内容はなかなか面白いのもありますよ。車の運転中でないなら、僕は聴くよりは本読む方を選ぶけれども。

まとめ。
プレゼンやスピーチをするときに、原稿を読み上げるのはやめよう。多少ぎこちなくても良いから。
今日はここまで。

※これを書いてから気づきました。水曜日夜にセミナーで話して、木曜朝にこれがアップされることを。「じゃあ、おまえはどんなんだ!」を恐れていたらナニも書けないから、自分のことは棚に上げてるんですよ・・。

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