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デジタルとアナログの間を行ったり来たり

脳死であれば「私」は死んでいる

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 臓器提供カードというものが出回るようになり、しばらく過ぎた。いまだに携行していない。理由は提供の意思がはっきり決められないからといえばそうなのだが、自分の意思だけで決められる問題ではないのではないかという疑問があるからだ。

新国立劇場近くにあるオブジェ 死後の臓器提供についての意思を問われたら、率直な答えとしては「どっちでもいい」である。私の臓器で役に立つのであれば、使ってもらってかまわない。もし使える状態なら、だけど。臓器を誰かに提供することに拒否感はない。なぜなら私は死んでいるのだから。どうぞご自由にだ。「ただし」は後述。

 脳死判定の専門的な判定基準はよく知らないが、何かの本で読んで印象的だったのは「もう生き返ることはない状態」だということ。厳密には死とは断定できないものの、限りなく死の手前であり、生へ戻ることはない。そうした死の間際なら臓器を提供できるというのなら、誰かにあげてもいいと考えている。あの世に臓器を持参する必要はないからね。

 ただし、いくら私が容認したとしても、遺族をないがしろにできない。私が死んだら私は意思を持たなくなるが、私の死と向き合わなくてはならないのは何よりも遺族だからだ。遺族が少しでもイヤだといったらダメだ。私が死ぬときに誰が遺族になり得るのか分からないが、臓器提供の可否については遺族の意向を尊重してほしいと思っている。私の「どっちでもいい」なんていいかげんな意思よりも。……というのが私の臓器移植についての意思である。もし臓器提供カードを持つなら「遺族に聞いて」と書くだろう。だがそういう書き方は臓器提供カードの使い方になじまないと思うので携行してないが。

 そんな自分の意思を思い出してしまったのも、臓器移植法の改正が話題になっているから。前からひそかに話題になっては立ち消えになり……を繰り返し、また今国会ももやもやとやっている。通常なら党ごとに案がまとまるはずなのに、なぜかA~D案まで4案連立という不思議な状態になっている。

 そんな時、何気なく河野太郎氏のブログ「愚にもつかない妥協案」を見て腑に落ちた。A案の考え方だ。最終的には遺族に決めてもらいたいと考える自分の考えになじむ気がした。A案というのは「脳死は人の死」という考えで、提供者は死んでいるのだから生前の意思も含め最終的には遺族が決めることができるようになっている。ただし、この考え方自体も選択ができ、遺族が「脳死は人の死ではない」と考えるなら脳死判定されることはなく、臓器提供されることもない。

 各種メディア記事を見ると、多くが臓器提供が可能な年齢の差を表で比較しているが、それだけでは分からないと思う。現行法は提供者の生前の意思が尊重されるため、これが遺言とみなされるらしく、臓器提供可能な年齢が民法上の遺言ができる年齢となっている。だがA案は「提供者は死んでいるのだから遺族が決める」なので、遺言可能な年齢は関係なく、年齢制限は撤廃となる。一方、ほかの案のように、現行法のポリシー「提供者の意思があった場合のみ、脳死は人の死とする」を変えないなら、臓器提供可能な年齢だけを変更するのは合理的ではないように思う。

 いろいろと案が出ているらしいが、現行法がうやむやにしている「脳死は人の死か?」という問いに対してはっきりと答えを出さなくてはならないのではないだろうか。提供可能な年齢だけをごにょごにょ議論しても本質的な問いに踏み込んでいないのではないかと思う。

 ただ難しい問題であるのは理解できる。現場の遺族にしてみれば、家族の死を受け入れるのは容易なことではない。「臓器提供できるなら死んでいないのではないか」と思いたくもなるのだろう。だがA案ですら、その気持ちは尊重される。「脳死かもしれないが、まだ死んでいない」と家族が考えれば、脳死は強制されない。

 偉そうなことを言っておきながら、ちゃんと理解できているかは定かではないが(汗)、こうしたあたりの話がきちんと報じられていないような気がする。

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