個人情報についての感覚の変化
最近では個人情報を保護することに敏感だが、よく考えるとかつては「保護」という感覚はかなり希薄だったように思う。ふとした会話の一端からかつてとの違いに気付かされることがある。
「だってホラ、いま『アイツは前科○犯』って言わないでしょ」
そういえば。かなり昔にそういう表現を聞いた覚えが……なくもない。今は犯罪者を捕まえてみたら実は前科があったことに後から気付いたりする。更生できなくても時間がたてば日常に戻れてしまう怖さも感じる。
「履歴書から戸籍欄がなくなって久しいね」
そうだったのか。しばらく履歴書とは縁がないので気付かなかったが、以前は書いた。ような。気もする……ことすら忘れている。
「昔は戸籍に犯罪歴から身体的欠陥まで書いてあったんだよ」
ええっ!。ご年配の方から聞いた時は驚いた。それは戦前の戸籍だそうで、戦後しばらくは閲覧可能だったらしい。調べてみると「壬申戸籍は1968年に閲覧が禁止」とあり、いまの戸籍も1976年までは閲覧制度があったそうだ。
そのせいだろうか。べたなドラマでは、他人から自分の戸籍を見せられ出生の秘密に驚く場面があったりする。つい数年前に見た映画では、主人公らが不審人物の正体を調べようと役所で戸籍簿だか住民票簿だかをパラパラめくって閲覧している場面があった。さすがに「おいぉぃ。いまそれはないだろう」と思った。
いつから転換したのかよく分からないが「個人情報は保護するもの」という制度が普及し、いまではとことん開示しないように変わりつつあるようだ。
「いまは病院でも個人名は出さない。番号で呼びだしたりする」
それでミスが発生したらたまったものではないが。今年の国勢調査にしても、個人情報を開示することに嫌悪する人が増えて回収率がさんざんだったと聞く。
制度は確実に保護へと変化していく一方、感覚は新旧入り交じっているような気がする。そういえばつい少し前は犯罪者に対しておじいさん議員が「さらし首にせよ」なんて言ったものだが、今年は聞かなかった。
それはともかく、いまは変化に戸惑いもあるようだ。ニュースの見出し「個人情報過剰保護「暮らしにくい」6割…読売調査」(読売新聞 - 12月27日)を見てふと思った。
適正な開示の範囲とはどこまでか。どう扱うべきか。場面ごとの必要性と、変化していく感覚との兼ね合いで模索していくのだろうなと考えている。