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ITに強いビジネスライターとして、企業システムの開発・運用に関する記事や、ITベンダーの導入事例・顧客向けコラム等を多数書いてきた筆者が、仕事を通じて得た知見をシェアいたします。

【AI・マーケ・禅】修証一等

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禅について語るには、最低限でも坐禅を組む必要があろうと、先日参禅会に参加した。

西麻布にある長谷寺(ちょうこくじ)という曹洞宗のお寺では、月曜参禅会というのを開催してくださっていて、初心者には講義もしてくださる。その講義が聴きたくて、こちらに参加することにしたのだった。

禅に関する本は何冊か読んでいたので、講義と言っても知っていることばかりなのではという驕りも正直あった。一方で、それでも発見があるという期待もあった。

結果は期待以上のもので、驕りを深く反省した。そして、やはり参加して良かったという感謝が強く残った。

原(たず)ぬるに夫(そ)れ、道本円通、争(いかで)か修証(しゅしょう)を仮らん

最初に、合掌、叉手、法界定印という禅におけるもっとも基本的な手の作法を3つ習う。高々手を組み合わせるというだけで深い話がいろいろあるのだが、今回は割愛。

その後、禅の基本的な心構えをいくつか習うのだが、一発目からやられた。いかに自分は本を読んでも表面的な理解しかできない人間なのかを思い知らされたのである。

その一発目の言葉が、上の見出し。

「原ぬるに夫れ、道本円通、争か修証を仮らん」

これを修証一等(しゅしょういっとう)という。

意味は、本源をたずねてみるに、仏道そのものはあまねく行き渡っており、どうして修行をしてさとろうなどという計らいが必要であろうかということ。

もう少しくだけた言い方をすると、もう至るところに仏がいるのだから、なんで修行なんかしにくるの?という意味。

そして、こうまで言うのだ。

「坐禅は習禅にはあらず、唯だ安楽の法門なり」

坐禅は何かを得るための手段ではなく、その行為そのものが身と心の調った仏の姿なんだよ、と。

つまり坐禅なんかしても何も得られない、「本来の自分」に戻れるだけなんだよと言っているのだ。

そう。わざわざ遠くから坐禅を組みに来た人に、何かを得ようと思ってやってきたなら無駄足を踏んでいるだけだと言っているのである。

マーケティングとは本来の自分を見つめ直すこと

「こういうことを言うから、曹洞禅は評判が悪いのです」と説明してくれたお坊さんは苦笑いしていた。

だが僕はこれってマーケティングの話、それもとても役に立つマーケティングの話だと思ったのである。

俗されていますでしょうか? まあ俗されていてもいい。

マーケターでもデザイナーでもメーカーでも何でも同じ。不思議なことにこれら提供者側の人々は、製品を自分(または自分の家族や知人)が使うということを、きれいさっぱりと忘れる傾向がある。

それで様々なデータを集めたり、本を読んだり、人に教えを請うたりして、何とか自社製品を売れるものにしようとする。

だがそんなことは、自分も生活者だということを思い出せばまったく必要ないのである。

ではなぜ、最近ではAIなどを使ってまで実施するデータドリブンマーケティングが必要かといえば、自分の偏りを正すためである。

まさに修証一等

お客様は神様とよく言うが、本稿は禅の話なので、仏様ということにしておこう。

マーケティングとは仏様が何を考えているのか、何を欲しがっているのかを探すこと。今はそのためにコンピュータをフル稼働している。コンピュータのフル稼働が坐禅だと思ってください。

しかし坐禅をしても仏様が何を考えているかなど得られない。自分が仏=お客様=生活者だということを思い出せ。そうすれば自ずから道は開ける。

僕は某大手広告会社の仕事を何件も請け、多くのインタビューをこなした。インタビューした人たちが言うことは異口同音、生活者視点でものを見ろということだった。

まさに修証一等とはこのことだ。

だが僕はその本当の意味を、坐禅の初心者講習でようやく理解したのであった。

参禅会に参加して得たものは大きかった。だが坐禅で得ようとしてはいけない。うーむ難しい。


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