オルタナティブ・ブログ > THE SHOW MUST GO ON >

通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

対話をしているようで実は主張しかしないという行為

»

多分に自戒を込めた話です。

かつて(多分ごく一部では通用した)ネット用語としての「モヒカン」は既に死語の類ではありますが、それでも今でもそこここに見えるなと思っています。今から15年近く前にotsuneさんが「ネットのお宅くんたちの理屈は気持ち悪いので聞き入れるつもりは有りません」というありがちな遮断のなかで「駆けつけたモヒカンで手斧を持ったプロテクター姿のシステム管理者やプログラマやネットジャンキーたちに原理主義攻撃でボロボロにされちゃう。」と表現した状況が、いわゆる情報システム系の話だけに収まらず形を時代に合わせつつ今でもそこここに見え隠れしてるってのは、要は人の行動様式って変わらないんだなと改めて思わせてくれます。

もちろん何かしら意図的に解釈を捻じ曲げたり間違った事を主張するのは良いことだとは思いません。例えば物理法則のように誰にも変えられないモノを曲解するのは良くない。色んな判断を間違えます。でも世の中そんなに白黒を付けられる問題ばかりではありませんし、立場立ち位置主義主張によって物事の見え方は違いますし、価値観の違いにより正解の軸も変わります。そして最後は好き嫌いになってしまうとどうにも収拾が付きません。

もうこれは良し悪しの話じゃなくて。

 

なんでそんな昔の言い回しを思い出したか

山本一郎さんがYahoo Newsの「ネット社会の抱える正義を間違いや誤爆から如何に正しく軌道修正するかという難題」で「どちらにせよ、いままではネットでの炎上を防ぐ、管理するというドクトリンが一般的であったものが、現在は積極的にネット炎上に対して正しい知識を入れていき軌道修正が図れるプロセスを踏むほうが、より良いネット社会の実現という意味では資するのかもしれません。」と書かれているのですが、確かにそう思います。

とは言え、立ち位置の違う原理主義同士の間で斧が飛び交い始めると傍観しているだけでも怪我しそうになる訳ですが、それでも少なくとも自分がある程度責任を持って事実関係や事象背景を説明できる事案について議論を正しい方向に向けさせるという努力が必要になることが稀にあったりはします。たとえば自分にとって赤の他人同士で斧を投げあっているならそっと通り過ぎるのが小市民の嗜みと心得ては居ますが、その渦中に少なからず知っている人がるのに気がついてしまってその状況を放置するのも如何なものかと思う事がゼロではないのも事実なので、この私でも状況によっては何らかのお話をすることが無くもないです。

でも、議論になっていることに気が付かないことも多いし、後から気がついても介入するタイミングを失っているとか、そもそもそういう気にすらならないことも多いのは事実。更には立場上多くを語れない話題... いや、そういう話題だからこそ目につくのですが... だと介入すること自体が難しいことも多々あります。

 

どこまで主体性と責任を持って発言するかという難しさ

因みにインターネット商用開放のはるか以前からインターネットワーキング(いわゆるパソ通と呼ばれた世界ともちょっと違う形ですけれど)に絡み初めて以来そこそこネットの世界をさまよってきた自分自身として、ネット上で立てたくない波風を避ける方法の幾つかは自分で体で学んだり非常に近くに立ち会ったりしてきましたし、今後も色んな意味で大人としてこれからもネットな世界に接していたいとは思ってます。

でもネットでもリアルでも明らかに何かの方向に振り切ってしまっていると思える場合には、やはりそっと通り過ぎるしかなかったりするので、まぁ色々だなとは思っていますが。

Comment(0)

コメント

コメントを投稿する