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オープンソース系パッケージソフトウェアベンダーの社長のブログ

芸術とかフレームワークとか型とか

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ぼんやり見ていたので、なんの番組かはっきり覚えていないのだが、テレビ番組を見ていたら、書道を教える場面が映し出された。講師が、「『欲』という文字で、あなたの欲望を表現してください」というお題を出し、生徒が(毛筆で)「欲」の字を書くというものだった。

私は、普通に、自分の欲望の念を込めて、習字のお手本にあるような「欲」の字を書いたりすると、微妙に筆跡が変わったりするのを師匠が「おぬしの筆跡には、邪念が入っておるわ!」と一喝するような展開かと思ったのだが、そうではなく、皆いわゆる「お習字」の枠を超えて、思い思いに「欲」の字をデザインし、自分の欲を表現していた。

点がお金になっていたり、偏と旁(「谷」と「欠」)が動物の形をしていたり、笑い顔と泣き顔になっていたり…ほとんど「絵」なのだが、それでもたしかに「欲」という字の形をなしている。ほー、書道とはこういうものなのか…と間違っているかもしれないが理解したような気になった。

まったく偶然なのだが、その直後、ずいぶん前に買ってあったが時間がなくてまったく読んでいなかった本を読んでいたら、以下のような記述が出てきた。

(以下私の勝手な要約)
米国人の筆者は、留学先のパリにて、ネットカフェから母国の友人にメールを書こうとするのだが、米国のキーボードと欧州のキーボードの仕様が微妙に違うために、ある日、なんと「m」を打つ方法がわからないという状況に陥った。仕方がないので、「m」の字抜きでメールを書こうとするのだが、そのときはじめて「リポグラム」の面白さに気付く。リポグラムとは、いくつかの文字を、意図的に使わないで作文する技法のことなのだが、そのような制約を受けたほうが、かえって表現することに集中でき、表現力が豊かになることに気付くのだ。作者はさらに、実は詩や詞も、人工的に制約を課すことでかえって表現を豊かにする技法なのではないかと思い至る。
(要約以上)

この話と、先ほど述べた書道教室の場面が妙にリンクしてしまい、私の中で強い納得に変わった。

「あなたの欲望を絵にしてください」と言われても、何から表現すれば良いのかわからないが、「『欲』という字であなたの欲望を表現してください」と言われれば、少なくとも表現のためのとっかかりはできるし、かえって自信を持って表現をすることができる。本当の天才には、このような土台や制約は不要である可能性もあるが、我々凡人にとっては、むしろ土台があったほうが表現に集中することができる、というのは本当かもしれない。

他の例も、枚挙にいとまがない。音楽なら旋法から対位法和声法、時代が飛んでバークリーメソッドも。詩なら短歌俳句や律詩絶句。いずれも芸術は型を作り型を破ることで進化してきた。

これらの「型」も、オープンソース的に発生する分木からダーウィン進化論的に選別されてきたのではないか、と仮定すると興味深い。もしかしたら、5・7・5・7・7(短歌のリズム)が生まれた頃、6・7・6・13を考えた人がいたかもしれない。6・7・6・13ではなかったとしても、何か他の「型」を誰かが考えたのは自明だろう。

しかし、何らかの理由で、それらの「型」は生き残らなかった。表現力を増幅すると判断され、表現者たちに愛され選択されたのは5・7・5・7・7だったのだ。

…さて、上記のリポグラムの話が出てくる、私が読んだ本なのだが、文化に関する本か何かだと思われただろうか。

実はそうではない。このブログを読んでいただいている層を考えると、既に読まれた方もいらっしゃると思うが、「Ajax on Rails」の冒頭の方に登場するエピソードである(上記の要約は、私が勝手に原著を脳内で訳して勝手に要約したものであり、原著者の意図と異なる表現になっている可能性がありますのでその点はご理解下さい)。

そのエピソードは、「なぜフレームワークを使うのか?それは自分の書こうとしているプログラムの自由度を制約することではないのか?」という問いかけに対する答えの一つとして提示されている。

「ハッカーと画家」ではないが、プログラムを書くことを工業生産的行為ではなく、自己表現に近いものとして位置づけるならば、著者の主張も納得できる。

ただそれは、その「型」が「6・7・6・13」ではなく、「5・7・5・7・7」だった場合の話だ。

Ruby on Railsは果たして「5・7・5・7・7」になれるだろうか?個人的には「5・7・5・7・7」っぽいよね、という意見に与したい気分だが、それは歴史が判断することだ。

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