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大量消費をボイコットしはじめた生活者視点からのインサイトメモ

Imagine:複数の国家が争う状態が解消された様子を想像してみたらどうかな

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Imagine there's no countries
It isn't hard to do...
Nothing to kill or die for
And no religion, too

「countries」が複数形になっているところがポイントだと思います。

意訳:『複数の国家が争う状態が解消された様子を想像してみたらどうかな?別に国が無くなるわけではない。そうではなく、国家のために人を殺したり命を犠牲にする必要がない状態。宗教についても同じで、そのために人を殺したり命を犠牲にする必要がない状態。』

補足:『だって今は、各都道府県のために人を殺したり命を犠牲にしたりしないでしょ?でもかつてはそうしてたわけで、今はそうした戦乱状態からすでに脱却しているわけだ。だったら国家のレベルでも、それは可能だと考えてみたらどうなんだろう?現に、国際連合や欧州連合は、そうしたコンセプトから生まれたものだ。ただ、それがまだ未完成なだけで。でも未完成だからといって、それが不可能だと論う(あげつらう)のは建設的じゃないと思うよ。』

短期(短気?)の視点で実現性を考えるから不可能に見える。すこし長期の視点(せいぜい百年単位)で考えれば、実現するにきまってる。

そのベースとなる組織(国際連盟〜国際連合)は既に存在するわけだから。

そして、それは、過去に戦争の災禍を乗り越えて平和を実現してくれた世界各国の人々のおかげです。

たとえば、今、長野県に住む人々は、武田信玄と上杉謙信の覇権争いに巻き込まれることもなく、平和な生活を享受しているけれども、そんなことは意識せず、日々の喜怒哀楽を口にしながら生きている。

平和な生活のありがたさは、別に意識されなくてもいいのです。

未来の人々は、(あるいは核戦争の惨劇を経験するかもしれないけれども)いつか実現するであろう、そもそも国家間の戦争というものが存在しないような時代を、日々の喜怒哀楽を生きてくれると思います。

そのための素地をつくるのが、今の時代を生きる人の使命ですが、そのような使命は、選び取らなくても構わない。そのような使命を選び取るのは本人の自由です。

カントがいうところの「自由」とはそのようなものです。そうした能動性にのみ「自由」があるのだというわけです。

真・善・美(カントの著作でいえば:純粋理性批判・実践理性批判・判断力批判にそれぞれ対応)は、すべて上記の「自由」の概念とつながっているのです。

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