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書評:『後白河天皇』

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第101回.jpgのサムネイル画像後白河天皇』 
美川 圭(著)

 本書は、定評のある「ミネルヴァ日本評伝選」の1冊である。わが国で武家政権が成立する前夜、源平が相争う激動の時代に君臨した後白河天皇、稀代の暗君か謀略の策士か、評価の分れる「日本第一の大天狗」の生涯を描いた力作だ。

 即位の可能性が低かった青少年時代、後白河は今様(流行歌)に狂う。陰謀の中、即位した後白河は、実兄の崇徳上皇と争う保元の乱に見舞われる。「保元の乱の本質は、王家と摂関家という二大権門の軍事衝突であり」「勝者が権門摂関家の解体を一番に指向することは当然」、また、後白河は「鳥羽法皇から王家領荘園を相続することができず」故に政治的に弱体であったという指摘は鋭い。保元の乱以降の政局を握ったのは信西であった。しかし、藤原南家出身で自らの才覚のみで伸し上がった信西に対する貴族層の反感は根強く、藤原北家の流れを汲む信頼が源義朝と組んで信西を抹殺する。熊野詣から引き返して帰京した平清盛は、最初は中立の立場であったが、信頼の専横に不満を持つ勢力に担がれて、信頼・義朝を討つ。これが1159年の平治の乱である。

 後白河は清盛との連携を図る。清盛は、関白基実の正室に娘盛子を入れる。基実が急死すると(66年)、7歳の嫡子基道が成人するまで摂関家領の大部分は盛子の管理下に置かれた。要するに、清盛が、事実上、摂関家領を支配してこれを独自の経済基盤としたのである。なるほど清盛は遣り手だ。67年に太政大臣になった清盛は大宰府も掌握し、日宋貿易によって巨利を得る。清盛は福原の港を整備した。74年、後白河は建春門院(清盛の義妹、平滋子。2人の間に生まれた高倉天皇は68年に即位)と厳島御幸に赴く。清盛も同行し、2人の蜜月が頂点を迎える。しかし、77年、鹿ケ谷事件が起こり、2人の間に大きな亀裂が生じる。78年、高倉に嫁いだ清盛の娘、徳子が安徳天皇を生む。79年、清盛はクーデターを敢行し後白河を幽閉して(院政の停止)平氏政権を樹立、翌80年には安徳を即位させた。これに対して以仁王が挙兵、頼朝、義仲も挙兵する。81年には清盛が死去、83年には平家が都落ち、85年、義経が平家を滅ぼす。後白河は平家に焼き討ちされた南都東大寺の再建に執念を燃やし、大仏開眼にこぎつける。これは、手元に義経を置いた後白河の示威行動ではなかったか。

 不安を抱いた頼朝は、義経に刺客を差し向けるが失敗。義経は後白河に頼朝追討宣旨を出させる。しかし畿内の武士は動かない。奥州藤原氏の下に逃れた義経は89年に自害し、頼朝は「前9年合戦」を再現すべく奥州に出撃する。頼義の正統な後継者であることを見せつける演出である。そして翌90年に入京して後白河と和解。後白河は、動乱の時代を65歳まで生き延びて92年に他界する。

 本書の特徴は、当時の経済的な基盤であった荘園の伝領経路を丹念に分析していることである。裏付けがしっかりしているので、激動の時代の推移がとてもよく理解できた。ただ、タイトルとは裏腹に後白河の個性や体温は十分伝わらない。例えば、宋と交易し福原遷都を断行した清盛の果断さとは対照的である。この空虚さが、王家の長の宿命なのだろうか。なお、当時は、天皇(家)という用語はまったく使われていなかったので、王家と表現するのが学界の常識である。

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