IT技術者教育に携わって25年が経ちました。その間、変わったことも、変わらなかったこともあります。ここでは、IT業界の現状や昔話やこれから起きそうなこと、エンジニアの仕事や生活について、なるべく「私」の視点で紹介していきます。

対人力と技術力~書評『ITエンジニアとして生き残るための「対人力」の高め方』~

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同僚で先輩の田中淳子氏と、同僚で後輩の都川信和氏が『ITエンジニアとして生き残るための「対人力」の高め方』というタイトルで本を出した。


ITエンジニアとして生き残るための「対人力」の高め方
~あなたに足りないのは「察する力」だった!~

ここでいう「対人力」は、コミュニケーションを中心とした対人関係にまつわるスキルを指している。

ITに限らず、仕事というのは本質的に「他人のためにする作業」なので、対人力が全く必要ない場合はほとんどない。製品やサービスを消費者に提供する立場の人はもちろん、下請け職人であっても元請けとのコミュニケーションが必要になる。私は以前「顧客を無視して仕事ができるのは芸術家だけだ」と書いたら「職業芸術家の多くは、顧客のことを考えて作品を作る」とお叱りの声をいただいた。顧客だけではない。小説家は編集者と、画家は画廊とのコミュニケーションを行う。要するにあらゆる仕事に対人力が必要なことになる。

ただし、ITエンジニアは、他業種よりも苦労する面がある。それは、使われている技術が日常生活と無縁なことだ(少なくとも無縁に見えることだ)。

2階建ての木造建築の場合、外観を見ればなんとなく(あくまでも「なんとなく」だが)構造が分かる。しかし、これがスカイツリーとなるとどうもよく分からないし、海底トンネルだと想像すらできない。ITに使われる技術の多くは、建築に例えるとスカイツリー並みの複雑さになっているため、素人にはなかなか理解できなくなっている。

そういう体感できないことを、ITエンジニアは分かりやすい言葉で、正しく顧客に説明しなければならない。たとえば「血液が酸性/アルカリ性」というのは分かりやすいが、実際に酸性やアルカリ性になるわけではないため、この説明は正確ではない。分かりやすく、正確に表現するのは非常に困難な作業である。

本書は、IT分野を題材に、エンジニアが陥りやすいコミュニケーションミスを分かりやすく解説し、改善のための方法を具体的に提示してくれる。ただし、前述の通り、コミュニケーションはあらゆる職種で必要なスキルである。いくつか登場するIT用語が理解できれば、ITエンジニア以外の人にも広く役立つはずだ。

なお、田中淳子氏の著作を以前から読んでいる人にとっては、何度か目にしたエピソードを読むことになる。しかし、どれも

  1. 良くない事例
  2. 解説
  3. 改善例
  4. まとめ

の順に構成されているため、同じエピソードでも格段に理解しやすくなっている。それに、そもそも、よく登場するエピソードは何度読んでも面白い(面白いから何度も登場する)。田中淳子氏と私は長年同じ会社に勤務しており、エピソードの元ネタの多くを知っているせいもあるが、それを差し引いても面白いはずだ。

取り上げられるエピソードは、社外編が15、社内編が15、合計30で、どれも直接の関連性はない。そのため、目次を見て興味を持ったところから読んで構わない。しかし、ある程度のストーリーがあるため、最初から読んだ方が頭に入りやすいと思う。

ただし1つだけ注意がある。本書の「改善例」が、実際のビジネスでの「ベストアンサー」とは限らないことは十分注意して欲しい。本書の主題はあくまでも「対人力」であり、「ITソリューション提案」ではない。ITエンジニアの方は、各エピソードを読んだあと「自分だったらどうするか」「さらに何をすればベストアンサーが導けるか」は、ぜひ自分で考えて欲しい。

たとえば、最初のエピソードは「会議室予約システムの開発」である。「良くない事例」で、高機能なシステムを提案する谷さんに、顧客は「そんな高機能で高品質なものは不要です」と言われてしまう。顧客の要望をよく聞いていなかったのが原因である。そこで「改善例」では、詳細なヒアリングが始まっている。

2番目のエピソードも「会議室予約システムの開発」で、クラウドサービスの利用を検討している。初期投資を抑え、極端に高い信頼性を必要としないなら、クラウドサービスの選択は適切だろう。多くのクラウドサービスは99.9%程度の稼働率であり、これは「十分良く管理された社内システム」には劣るが「そこら辺のいい加減なシステム」よりは信頼性が高い。

しかし、そこで考えて欲しいのは「クラウドサービス以外の方法はないのか」ということである。たとえば、マイクロソフトが提供するメールシステムExchange Serverには、会議室予約の機能が含まれている。そこでクラウドサービスを使う理由はなんだったのだろう。私は以下の3つの可能性を考えた。

  1. メールシステム付属の機能では不十分
  2. 社内のメールシステムはExchange Serverではなく、会議室予約機能がない
  3. 顧客もベンダーもメールシステムに会議室予約機能があることを知らなかった

ITベンダーとして最悪なのは「3」である。いくら対人力が強くても、基本的な知識が足りなければ話にならない。

最近、システムエンジニアのコミュニケーションスキルが重視されるようになった。それは大変良いことだが、だからといって技術力を軽視してよいわけではない。IT技術者にとって対人力と技術力は車の両輪であり、どちらが欠けても困る。

本書は、対人力の参考書として大変優れた内容であるが、そこで安心しないようにしていただきたい。特に、クラウドサービスの普及により、顧客のIT知識は数年前よりも格段に向上している。当然、IT技術者はそれ以上の知識が必要である。そのことを忘れずにいて欲しい。

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