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「エンガワ=縁側」は、完全な「家の中」でも「外」でも無い「宙ぶらりん」な空間。そこには誰でも気楽にぶらりと立ち寄れて、しゃべったりお菓子を食べたり。情報交換や一休みに飽きたら、すいと立ってまた自分の仕事に戻って行ける。そんな風にゆるくて、ちょっと元気をもらえる所。そんな皆が好きな「縁側」で、いつも空を見上げながら何故か「背泳ぎ」をしている…そういう雰囲気のあるブログを綴っていきます。

続・あえて今、「震災復興ツーリズム」のススメ(あの街の震災遺構はいま編)

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~それぞれの「震災遺構」を巡って~

●「歴史の生き証人」としての、大川小学校

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 石巻で三日間の滞在時間を取った間、何とかして見てみたいと考えていた場所が複数ある。

 旅先で列車・バス・自転車・徒歩以外に移動手段のない筆者に、車で案内してくれる知人がいたお陰で、石巻市街から遠く離れたとある有名な311の津波被災の現場を訪れることが出来た。

 宮城県石巻市立大川小学校。

 ここで、東日本大震災のあったあの2011年3月11日、大津波に襲われて74人もの児童と教職員10人が死亡・行方不明になった、まさにその場所である。

 教職員と生徒たちは、津波警報が出されながらすぐ近くにある裏山へと避難するでもなく、50分近くも河口へ続く川沿い近くの低地にある校庭に留まり続け、やっと少し高い場所にある大橋のたもとに向けて動き出したところで、一気に堤防を越えて来た津波に遭遇した...と、いったような内容がその後の報道によって明らかにされていた。そして、市教育委員会側の当時の説明や検証作業に納得できない一部の遺族との間ではいまだに軋轢が残り続け、説明会のたびに紛糾している。

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 この大川小学校については以前に筆者の誠ブログでご紹介した経緯もあるのだが、実際に現地へ行って見て感じたことは、まずもって「とにかく遠い!」ということであった。

 先程、石巻市街から遠く...と書いたが生半可な遠さではない。何せ、同じ石巻市内でありながら、緑の案内標識が掲げられたICから立派な三陸自動車道(無料区間)にいきなり乗る。そのまましばらく走り、国道に入ってからも雄大な北上川を横目に見ながら延々と走り続け(グーグルマップで確認したら直線距離で石巻市から隣の隣の松島町まで位あるように見える)、結局現地に着いたのは石巻市中心部を出発して45分も経ってからだろうか?周りの景色が折り重なる低山と、北上川の大河に挟まれて雄大だったせいで、余計にはるばる遠くまできたという印象を与える。

 そして実はこの「遠さ」にこそ、後述するが地域の復興を幾分かは妨げている要因があるのではないか...?とも筆者は考えたのだが、それはまた後で。

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 大川小学校を最初に訪れた日は、晴れて夏の青い空が広がっていた。だからこそ余計に、明るい光の中にじっとうずくまるように灰色の影を落とす、かつて子供たちの楽しい校舎だった筈の建物跡の周りだけ、時が止まっているように見えた。

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 以前は窓や壁の一部を喪失した校舎の中まで入って行けたらしいのだが、この訪問の時には、校舎全体と建てられたばかりの真新しい慰霊碑をぐるりと囲む形でロープが張られて、それ以上は近づけないようになっていた。特に慰霊碑には学校の子どもたちばかりでなく、この地域で亡くなった住民の方々のお名前も刻まれているので、報道も含め「カメラを向けないで」という注意書きには、この件の関係者達が神経過敏になっているらしい様子が垣間見えた。

 校舎の周囲を見て歩き始め、真っ先に目を奪われたのは、まるで巨人の掌でアメのように捩じりながら同時に引き千切られ、斜めに押し倒されたかのような、二階の渡り廊下だった部分の残骸である。植物の根にも似た剥き出しの錆びた鉄筋や、コンクリートの表面に走る無数のしわのような亀裂が、津波の強大なパワーを 物語っているようで、目の前にそれを見ているだけでお腹の底から冷たい恐怖がこみ上げて来る。こんな力が、こんな重さが、この建物と周囲にあった筈の家々にあの日、押し寄せていたのかと思うと...。

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 あの日、311の当日に比較的被害の少なかった関東にいた我々は、食い入るようにしていたテレビやネット画像を通して「二次的に」大震災の被害を目の当たりにしていた。数日経って、現地の人々が自らの体験した現実をスマホのカメラなどで撮影した動画が投稿され始め、またたく間に共有され広がっていった無数の動画の中には、この大川小学校の付近を小高い山の上から見下ろす構図のものが、確かにあったと記憶している。「学校だいじょうぶかぁ?!」と中年の男性が叫んでカメラが向けられた先には、ごうごうと荒れ狂う濁流となって果てしなく押し寄せ続ける一面の水景色、を映し出す映像しか無かった...。かろうじて、校舎の屋根の一部だけが見えていたかも知れない。

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 この大川小学校の校舎も、東日本大震災の被害を語り継ぐ「震災遺構」として保存処置し、永く後世に残すべきか、それとも地域の復興を優先して取り壊すべきか、議論の対象になっているという。

 確かに地域の人達が、この灰色の遺構に残る傷跡を眺める度に、あの日の哀しみや痛みを思い出してしまうから、早く撤去して欲しい、というのもわかる気がする。しかし、と同時に思う。「本当にそれでいいのだろうか?そんなに早急に決めてしまうべき問題なのか?」とも。

●現地に立って見て、初めて得られる確信

 校舎の裏手に回って、周囲に広がる夏草に覆われた広大な更地を見渡してみた。かつてここには、人々の暮らしが息づく昔からの集落があったのだそうだ。今は、堤防拡張工事のための砂利山がある以外は、ほとんど何も無い。はるか向こうに見える小さい山の向こうは、海だ。

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 今になって地形を見ると、わかることがある。集落にそって流れる大きな河と、反対側には急角度の藪山に挟まれて、小学校があった辺りからでは、やや高台になった橋の根元に繋がる大きな道路に出るしか外部への脱出路がないのだ。

 あの日、河口から一気に流れ込んだ津波が海岸に生えていた松林を薙ぎ倒し、土砂混じりのその倒木が橋の欄干に引っ掛かって遡上してくる波の激流をせき止め、 橋の一部を破壊するとともに、勢いが向かった先の河岸の集落へとあふれ出して、地表にあるものを全て押し流したのだという。(だから、同じ河岸でも、遡上した津波の「向き」によって被害の程度には雲泥の差がある。)現在のグーグルマップの写真を見ると、橋が落ちた部分の下にある河底には、くっきりと巨大な爪で引っ掻いたかのような、何かが数十メートルにも渡って引き摺られたような筋が上流側に向かって残っているのが、写真でもハッキリと分かる。遡上した津波が凄まじいパワーで橋脚を押し流した痕跡なのだろうか。

 これらは全て、筆者を案内してくれた地元在住の被災児童のご遺族と関係者が、iPadを使いながら教えてくれたことだ。彼らは異口同音にこう言っていた。

「あの時、何があったのか、本当のことを知りたい。それだけなんだ。」

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 大川小学校の立地は、大河の堤防に隣接する低地にあり、校舎自体も二階建てと低く、今回の大震災での津波被害を目の当たりにした後の感覚からすると、地域の避難所としては本当に適格だったのか?といささか疑問に思わざるを得ない。

 「千年に一度の大津波など、そうそう予測出来るものではない」と、一般論としては言われるかも知れない。だから、仕方がなかったのだ、と。

 とはいえ事実として、小学校のすぐ近くを北上川という一級河川が流れており、大雨等による氾濫の可能性も全く想定出来なかったという筈はない。そうした通常の洪水被害を考えたとしても、事前に想定されていた避難計画は、本当に妥当なものだったのだろうか?

 そう考えた時、自分の中では明確に答えが決まっていた。

 「大川小は『震災遺構』として残すべきだ。この場所に、地理的条件とともに残すことに意味がある。」

 実際に無人になった校舎の前に立つ時、あまりにも校舎裏にある山が「近い」と感じる。だからこそ、誰でもが否応なく考えてしまう。「...どうして大津波に襲われる前に、この裏山へ皆で登って、助かることが出来なかったのか?」と。

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 確かに校舎正面から見える側は藪に覆われた急斜面で、お年寄りや小さい子供には登るのが難しそうな部分もある。しかし、そこからほんの十数メートル奥へ入ったあたりでは、それほど斜面は切り立ってはいないし、古い時代の墓地の脇には、山の上の林道に繋がっているという細い小道まであった。校庭に避難していた人々が全員でこの裏山に登ることは、不可能ではなかったのだ。では何故...?

 そんな、いまだハッキリした答えを与えられていない疑問や、もやもやした感じまで含めて、この場所にこの姿のままで、残すべきだろう。

 自然の力を前にした人間の非力さ。文明を過信することの傲慢さ。亡くなった人々の無念さ。今回の大震災で起こった、全ての大きな悲劇を象徴する、物言わぬ「生き証人」のような存在として。

 ここを見れば、何が起きたのか説明する多くの言葉は、必要ない。

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 そう。まるで、ここは「原爆ドーム」のようだ。

 広島の原爆ドームを見た時の、どんなに暑い夏の盛りでも、身体の内側がひんやりと凍っていくような厳粛な感覚と、大川小の校舎を前にした時の戦慄や畏れ、深い悲しみは、とてもよく似ていると思った。その広島の平和記念公園に、こんな文言を刻まれた石碑がある。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから。」

 この碑を初めて見た時に、筆者は正直に言って、この文言が「誰の、何に対する、どの過ちのことなのか?」が、わからなかった。我々の?敵の?原爆を製造し、使ったことへの?悲劇と知りつつ、戦争を繰り返してしまう人類の?...或いはその答えは、今でも正確には理解できていないのかもしれない。

広島市のHPにはこんな風に解説されていた。

「この碑は 昭和20年8月6日 世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を 平和都市として再建することを念願して設立したものである

碑文は すべての人びとが 原爆犠牲者の冥福を祈り 戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である 過去の悲しみに耐え 憎しみを乗り越えて 全人類の共存と繁栄を願い 真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心が ここに刻まれている」

 かつては広島でも、終戦後に産業奨励館(原爆ドームの当時の名称)跡を見るのは、辛い過去を思い出させるから早く壊してくれ、という市民の声が少なくなかったのだという。もしもその時に保存反対の意見のほうが勝っていたら、現在の日本に「原爆ドーム」というものは存在せず、あの大きな戦争の悲劇を国境や時代を超えて語り継ぐ「生き証人」としての貴重な遺構を、我々日本人は一つ、永久に失ってしまう筈だったのだ。

 そう考えると、大川小学校の問題も「保存か?撤去か?」と、あまり性急に答えを出すのは相応しくないのではないか...と感じる。この場所にまつわる記憶は、地域のものであると同時に、今や我々日本人、いや世界中の人類共有の「記憶の遺産」でもあるのだから。

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 そして仮にこの校舎を恒久的に「震災遺構」として残すとなったら、広島における原爆ドームのように周囲を公園(植樹などによって遺構を目にしたくない心情の人へ配慮した緩衝地帯にもなる)などの形で整備し、地域外から見学者を集めるための旅行会社のツアーに組み込む企画発案や、見学希望者のアクセス向上のため最寄り駅からのシャトルバス路線等を新たに設けるべきだろう。それは地元の住民生活にも利するので、保存活動への協力も得やすくなるかもしれない。

 かつて石巻市と周辺六つの町は、いわゆる「平成の大合併」によって一つの広域の市になった。広大な面積を持つに至った市政が、その隅々にまで手が回らなくなっていたのではないか?という懸念は震災以前からあったようだ。「復興といっても市の中心地ばかりが優先されて...」と、車で案内してくれた遺族の方が不満そうに漏らしていた言葉が何となく気に掛かっていた。

 大川小学校を「震災遺構」として将来に渡って残すとなれば、当事者として市や地域の住民達との密な連携は、絶対に欠かせないだろう。この問題において両者の良好な協力関係が構築されるように、そのためにも、被災当日に何があったのか?どうして子供達は安全であるべき学校の管理下で被災したのか?という遺族の疑問に、一日も早く誠実な解答が示されることを願わずにはいられない。

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●議論が続く女川、陸前高田の一本松、南三陸町防災庁舎、そして解体が始まった共徳丸...

 東日本大震災の「震災遺構」をどうするべきか?という問題は、石巻以外の地域でも議論の対象となっているようだ。テレビで有名になった陸前高田のいわゆる「奇跡の一本松」などは、枯死してしまう木の寿命があって大急ぎで保存措置が取られたという面もあるので、それらの中でも決着が早かった方になるだろうか。

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(左手奥に見えるのが、保存措置された「奇跡の一本松」)

 一方、同じくテレビで有名になった遺構でも、それぞれ明暗は別れている。女川では「津波の直撃を受けて、基礎ごと横倒しになったビル」の映像が強烈な印象を残した。

 実際に近くで見ると、コンクリートのビルを、まるで消しゴムか何かのように易々と引き倒してしまった津波の威力に心底、戦慄を覚える。しかしこれも、被災の記憶を思い出して辛いという住民の声や、港の真正面に位置することから復興の妨げになるとして、早急に撤去を求める声が一部にあると聞く。

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(女川町では津波の水位がこの左側に写っている高台の上部まで達した)

 南三陸町の骨組みだけになった防災対策庁舎も、行政側が撤去の方針を決めた後で、住民側から「震災を記憶するために残すべきだ」という声が上がって議論になったが、遂に保存を断念した。

 これは被災地となった地域では何処もそうなのだろうが、被災の状況・程度というのはそれこそ人と場所により千差万別で、中々一概に結論を出せる問題ばかりではないのだろう。しかし、そうであればこそ尚更、多くの人が参加し、活発に議論が行われること自体に意味はある。

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 一方、やはりテレビで何度も映像が流れた、気仙沼の内陸に打ち上げられた漁船「第18共徳丸」は、つい先日、9月9日から解体作業が始まった。

 海から800メートルもの内陸に打ち上げられた船ということで、津波の恐ろしさを永く後世に伝えようと市は「震災遺構」として保存を目指したが、気仙沼市側が行ったアンケ­ートの結果、「保存の必要はない」という住民の回答が約7割を占めたため、やはり保存を断念した。遺構が私有地にあるという問題だけではなく、地元住民の中にやはり津波被害を思い出させる船体の保存を望まない声もあって、結局はそれを無視できなかったようだ。

 共徳丸の解体工事は、北海道・室蘭市のNPO法人が請負い、10月19日までに工事完了の予定だ。筆者はこれらの遺構の近くを、通過するバスの窓から眺めることしか出来なかったが、それでも遠目にも深く心に訴えかけて来るものがあった。それは、あの大川小学校の遺構の前に立った時とほとんど同じものだ。「凄い、恐い、酷い、どうして...」そういう、声にならない痛みと畏れの感情である。きっと、年月を経ても自分はこれを忘れることはないだろう、と思う。しかし、その先の時代の人々にとっては?

 東日本大震災の後、かつて大津波を経験した昔の日本人達が、その恐ろしさを子子孫孫に伝えようと記念に建立した碑や建物の幾つもが、本来の存在意義を忘れ去られて土中や、ただの家並みの中に埋没していたのが、至るところで再発見された。

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 記憶は、その時に生きていた人々がいなくなれば、あっけないほど簡単に失われてしまう。どんな恐怖も、苦難の記憶も、代を重ね口伝する人間が絶えれば、いつかは忘れられるのだ。さらに脆いのは人の手による構造物で、一度完全に壊してしまったら二度と元に戻すことは出来ない。

 歴史とは、誰かが「正しく伝えよう」と努力しなければ本来残らないものなのだ。

そしてその努力は、人々の営みの中で、途切れずに将来にわたって続くことにこそ価値がある。今、その未来に向けた「伝える仕組み」を作れるかどうかが、大震災を経験した我々現代の日本人に問われているのだと感じる。

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 最後に。こういうことを考えながら東北を巡った今回の旅は、最近ようやく議論されるようになってきたいわゆる「ダークツーリズム」の流れに属するものかも知れないが、かといって旅の間中、難しい顔をしてわざと悲しい記憶ばかりを辿っていたという意識も当人には無い。天気の良い日など綺麗な景色はちゃんと堪能したし、美味しいものは素直に美味しかった。そこには同情も哀悼のポーズも必要ない。

 旅をするこちらは活力を貰いに行って、時々気の向く場面でお金を使い、見聞を得て帰って来た。それでも十分ではないだろうか?知らないよりは知っていた方が、何が出来るかを考えることも出来る。

 だから、今からでも、いやむしろ今だからこそ、「震災復興ツーリズム」に行く意義は大いにあるのだ。


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