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ITに強いビジネスライターとして、企業システムの開発・運用に関する記事や、ITベンダーの導入事例・顧客向けコラム等を多数書いてきた筆者が、仕事を通じて得た知見をシェアいたします。

一貫性など生きていくうえで何の役にも立たない

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前回ネタ帳の話を書いたら、(いっぱい書いてんだから)過去のブログもネタ帳になるのでは、というまっとうなご指摘をいただいた(そういう意図じゃなかったかもしれないが、僕はそう受け取った)。

いただいたのだが、誠ブログって、下のほうに「関連記事」の一覧が出てくるでしょう?

問題はあれなんですよ。あれって、自分が過去に書いた記事なんです(「関連リンク」のほうは他人の記事)。

まあ、新着記事でも読んでいる人は少ないので、わざわざ関連記事をクリックする人も滅多にいないと思うのだが、たまーにいるかもしれない。

誠ブログが始まってから、まだ2年ぐらいなんだけど、過去記事の中には別人が書いているとしか思えないものもあったりして・・・・・・(樽汗)。

 

とえば、前回の関連記事でいうと、「毎日書けるのはなぜか?~あるいはネタ帳をつくらない理由(一日一言 #79)」。

「をいをい、おまえネタ帳なんて作ってないって書いてたじゃないかよ、この馬鹿野郎が」と罵られても、何の反論もできないのであります。

でも、まあ、こういうのはまだいいよね。

論調がまったく変わっていたりもするんですよ。変節というやつですね。

というのは、馬鹿みたいにポジティブだった時期があったりするのですよ、これが。ポジティブに見せかけていたというのが正しいのだが。

ヨメをはじめとする親しい人たちが、そろそろ自分らしさを出したほうがいいのではという貴重なアドバイスをしてくれたおかげで、今年になってからはネガティブで斜に構えたトーンになっているのだが、それと過去記事を比較されてしまうと、過去記事は明らかにイタい。イタ過ぎます。

 

かしながら、ポジティブなことを書いていたころの自分と今の自分を比べて、何か生きていくうえで変わったかというと、そんなことはない。

強いて言えば、ブログを書くのが以前より楽しくなったことぐらいか。

いや、人間関係も良くなった。

親しい人はあまり変わっていない。それどころかうざい人が周囲から減った分、気持ちのいい人との交際が増えて、以前より気持ちがいい。

ぶれない自分みたいなのがよしとされてきたが、どうもそうでもないようなのだ。

 

いうより、世の中の流れ自体ぶれぶれなのだ。下図を見てほしい。分かり易いように大雑把に描いたので、細かい突っ込みはやめてください。当然ながら、こんなにきれいに時代が変わってきたわけではない。

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明治維新以来1945年の終戦まで、大雑把にいうと富国強兵&戦争の時代だった。それが終戦を迎えて、価値観の大転換が起こった。

勤勉にしていれば、収入が増えて夢が叶う時代がやってきたのだ(とはいえ朝鮮戦争が終わっても、そんな雰囲気はなかったという証言はいたるところにある。大雑把な傾向として捉えてほしい)。

夢といっても今となってはかわいらしいもので、サクセスして偉い人に見られたいなどというものではなかった。公団住宅の抽選にあたり、電化製品や自家用車が買えるようになるというようなものだ。そして、それは真面目に働いていれば叶う時代だったのだ。

一方で、安保闘争や学生闘争の時代でもあった。自己主張のためには闘争も辞さない人が日本にはたくさんいたのである。

1970年の万博がピークだったように思う。その後、ニクソンショック(米の中共の承認とドル基軸の崩壊)とオイルショックが立て続けに起こり、一気にしらけの時代となった。

1980年代の前半には、電化製品や自家用車はほぼ行き渡り、高級品志向に変わっていった。欲望が全肯定される時代になった。それがバブル景気の遠因となり、空前の景気に日本中が浮かれた時代があった。バブル崩壊後も、欲望の肯定は続き、欲望という意味ではITバブルの時代がピークだったように思う。

一方で、そのカウンターパートとして「心の時代」を言う人たちが一大勢力となり、しばらく拮抗するが、2006年のライブドア事件を契機に、一気に心の時代に流れ込む。

 

だ、人間の欲望がなくなるわけではない。

心の時代というのは、僕に言わせれば「きれいごとの時代」だ。

欲望をオブラートに包みながら欲望を実現するというゆがんだ時代――あくまで私見だが――だったのではないか?

感動・感謝・絆・縁・顧客価値・お役立ちなどの一見きれいな言葉を連ねながら、目指すのは利己的な欲望の実現。

みんなの願いは人に認めてもらうこと。その前に他人に攻撃されないこと。本音はどんどん包み隠され、気持ちの悪い人間讃歌が席巻する時代。

人間って、本当にそんなに美しいものなのだろうか? 人間の美しさを前提に、愛や感動を唱えていたらシアワセになれるのだろうか?

 

ころがここ数年、このような流れが変わりつつある。僕と同じような疑問を持っている人が増えているようなのだ。

その象徴的な出来事が、2011年の西村賢太の芥川賞受賞とその後のブレイクだろう。

芥川賞作家の性格が破綻しているのは言うまでもないが(人格者の芥川賞作家なんて逆に嫌だ)、それはあくまで想像力の世界で、現実に悪い人はあまりいない。

ところが、彼の自伝的小説、『どうで死ぬ身の一踊り』や『小銭を数える』を読めば分かるように、西村賢太はかなりひどいことを現実にやってきた(ディテールは創作だが大まかには事実だと本人も認めている)。

DVなんてとんでもないとニュースで言うマスコミが、舌の根も乾かぬうちに西村賢太を絶賛するのはいかがなものかと思うのだが、しかし、僕はこれでいいと思うのだ。

むちゃくちゃな人ではあるが、一方ではなんともいえない人品もある。

人間ほど尊く美しく、清らかでたのもしいものはない。

だがまた人間ほど卑しく汚らわしく、愚鈍で邪悪で貪欲でいやらしいものもいない。

(『赤ひげ診療譚』山本周五郎)

 

このブログでも何度か引用している。これは複数の人間の話をしているのではなく、同じ人間にこのような性質が同居するということなのだ。

 

碍者は天使、難病患者は神に召される貴い犠牲のような価値観がしばらく支配的だった。そうではなく、彼らだって美しいところも汚いところもある一人の人間なのだということが先ではないだろうか。

大野更沙『困ってるひと』も同じような文脈で考えたい。

難病患者はもちろん大変だけど、変な同情や期待をしないで、ただの人間として接してほしいという意志を僕は感じた。

彼女は基本的には嫌な人なのである。でも、それを隠さない。難病で人生観が変わり、周囲の人や今生きていることに感謝している、なんてことを前面に押し出さない(どちらかというと感謝していないように見える)。大変だけど生きている、それだけ。しかし、生きていること自体があまりにすさまじい。リアルだ。

Amazonのレビューを見ていて面白かったのは、低い評価をしている人たちが難病患者に求めるものが透けて見えることだ。それが何かは蛇足だから言うまい。

 

田純次がブレイクしているのも、同じようなことではないだろうか。きれいごとに辟易している人たちが確実に増えていることの証拠だろう。

さて、心の時代の次にくるのは何だろうか?

人間のいいところも悪いところもひっくるめて肯定する時代のように感じているが、よく分からないので"?"にした。

とにかく欲望を覆い隠していい人面をしている人が成功する時代はとっとと終わってほしい。

とはいえ欲望丸出しの人が強引に成功する時代が戻ってくるのも嫌だ。

自分の欲望を認めつつ、いいこともしている人がうまくいく、そういうシンプルな時代が僕はいいなと思う。一方でうまくいかなくてもしかたないやという価値観も認められればそれがベストです。

 

ずれにしろ世の中の流れはぶれぶれ(ぶり返しというほうが正確か?)なのです。

一貫性なんて生きていくうえでは何の役にも立たない。それは自分自身の50年足らずの人生を振り返っても明らかなことである。

昨日まで褒めていた人を今日からは貶すなんてこともアリなんです。ただ、それでも変わらず残る人たちがいる。その芯があればいいのではなかろうか。

だから、ぶれてるとか矛盾していると言われても、僕は平気です。それ自体、ネタになるのだし。

 

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