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人材育成の現場で見聞きしたあれやこれやを徒然なるままに。

「さわり」「煮詰まる」そして「姑息」…

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あるセミナーで、主宰者が「今日は”さわり”を紹介しただけなので、自分でさらに勉強したい方は、○○を読んでみてください」と最後におっしゃいまして、「はて?どちらの意味でおっしゃったのかな?」と疑問を持ちました。

「さわり」とは、「音楽などの一番の聞かせどころ」のことを指す、と辞書に出ているのだけれども、上記の”さわり”は、「ほんの端緒」「出だし部分だけ」「ちょっと触れた程度だけ」というニュアンスで使われたようにもとれ思えます。

もちろん「今日は”さわり”を紹介しただけなので」が「一番の聞かせどころだけを説明しただけだから…」という意味にも取れなくはなく。なので、「どちらの意味で使ったのかな?」と思ったのです。

この手の、相手が誤解している?あるいは私が間違っている?と迷う言葉がたくさんあって、「煮詰まる」もその一つだと思います。

先日、わが母が、「旅行の行程がほぼ”煮詰まって”きました」というメールを送ってきまして、「おお、わが母、偉い!」と自画自讃ならぬ、自”母”自讃してしまったのですが、「議論を尽くして、結論が出そうだよ」というのが”煮詰まる”の意味。煮物していたら、”煮詰まる”の意味はわかるような・・・。

でも、「行き詰った」という意味で使うケースが多くなっていますよね。

「今日は、煮詰まっちゃったー」

と言われた場合、「それはおめでとう。あとは、行動に移すだけだね」なんて返事するのが本来的なのかもしれませんが、「行き詰った」という意味で使っているのであれば、「おめでとう」ではないわけだし。

そして、「姑息」。これも勘違いされやすい言葉。

昨年、実父が皮膚がんの手術を受けました。

10年ほど前から症状が出ており、何度か手術を受けていたのですが、根本的にとれていなかったようで、昨年、別の病院でとうとう大がかりな手術を受けることになりました。(患部を取り除き、別の場所から皮膚を移植する、というもの)

その際、医師に言われたのが、
「お父さんの場合、これまでの手術がすべて”姑息手術”だったのだけれど、今回は”根治手術”をすることで、完治させましょう」
という言葉。

「姑息」ってこういう風に使うのねぇー、と改めて使い方を知り、もうこれで間違えないぞ、と思ったものです。

「姑息」は、”一時しのぎ”という意味なのですね。
姑息な手段、は、「ずるい手段」ではなく、「一時しのぎの手段」ということになります。

その父は、”根治手術”を受け、今も元気(年相応には)でおります。

ところで、

田中家(実家)は、リビングのど真ん中に「広辞苑」が鎮座ましましており、TVや新聞、あるいは、日常会話で「わからない言葉」が出てきたら、「誰かー、広辞苑!」と騒ぎ、すぐ調べる、という家族でした。今でも実家に行くと、「広辞苑!」と言われ、その中では一番若い私が調べに行く、ということもしばしば。

辞書で調べる行為が子供のころから日常の風景に溶け込んでいたのは、今思うとラッキーだったのかもしれません。


(※ 言葉は生もの、変遷していくもの、なので、ここで挙げた3つの例、誤用ではなく、いつか「いつのまにか”○○”に転じた」とか「平成時代から”○○”の意味でも使われるようになった」と辞書上の定義も変わってくるかも知れません。)

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