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組織、マネジメントの理論とその実践を、スポーツ・学校を通して考える。

私が担任だったとき

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クラスに耳の不自由な生徒がいた。音が全く聴こえず、口の動きを読んで意志の疎通をしていた。担任だったので、3年間毎朝連絡事項を紙に書いて掲示した。親も耳が不自由だったので、クラスや学校の様子を伝えるのに「クラス通信」を毎週書いた。

進学の時期が来て、彼女は大学を受けることを希望した。試験には集団面接があり、他人の意見を聞いて自分の意見を述べなければならない。

大学の入試担当者に手話通訳を付ける「特別な配慮」をお願いに行った。進路指導部長に同行してもらい、事情を説明し懇願したが却下された。理由は「他の受験者が動揺する」「試験が不公平になる」ということだった。

この大学は教育水準は高いかもしれない。しかし、大事な学問の心は三流だと思った。

試験は不合格だった。他の受験者が何を言っているのかわからず、自信を持って意見を言えなかったのだ。悲しく、憤慨し、怒った。情けなかった、担任として。

彼女は他の短大へ進んだ。短大の先生は「彼女を受け入れて、私たちも彼女から学ぼう」と思う。と言ってくれた。なんて素晴らしい心を持った大学なのだろう。先生たちに心から感謝した。

卒業して1ヶ月後、新聞に彼女の記事が載っていた。見出しには

「学校はなにもしてくれなかった」とあった。彼女がそんなことを言うはずがない。

「3年間ありがとうございました」と言いながら卒業してくれた。

確かに、彼女が望む入試は受けることができなかったが。

これが、新聞報道なのか、と実感した。当事者になって初めてわかる「真実の報道」の危うさ。

私が担任だったとき、こんな悲しいことがあった。

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