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通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

"不謹慎狩り"の、そもそもの背景ってどうよ

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立場や価値観を含めた背景が違えば、同じ事象を見たときの評価は千差万別となります。
当然、その差異をどうやって表現するかというのもまた千差万別となります。
許せるもの許せないものという線引きも含め他者が一様に決定するべきものではない部分というのはあって然るべきではありますが、どこかで「一般的規範」としての評価を軸にものを考えるのはよくある話。というのを踏まえつつ・・・

 

"不謹慎狩り"の背景

例のカップラーメンのCMを一つのきっかけとした一連の"不謹慎狩り"の話があります。特定の記事やブログのエントリーを引き合いに出すとそれに対する評価になってしまうので敢えて避けますが、一般的に、そしてやっぱりよく見られるのは「昨今はこんな時代になってしまった」系の論調。じゃぁその軸の反対側にいた時代って何時なの?そのころはどうだったの?という話に行きあたります。でもそこは適当にはぐらかしているものが多い気がします。結果、読んだ後になんだか気持ち悪さが残ることが多いんです。
あくまでも個人的な感想ですが。

 

年をとればこういう物言いになる?

よくあるのは「なんで今はこんな風になっちゃんたんだよ」系の話。たいていは一定の社会経験を積んだそれなりの年齢の方。仮にこういう言い方をする「時代の評価者」を50歳と設定したとき、たとえば50年前の50歳も100年前の50歳も同じことを言ってたわけで、実はそれ自体は大した意味は無いかもしれないと思ったりします。
その一方で、たとえば50年前の20歳も100年前の20歳も同じように「爺がなに昔を懐かしんでるんだよ老害だよ」とか同じようなことを思っていたわけで、環境は変われど状況自体は長い人間の歴史上たいして変わってないんじゃないの?と思ったりします。
あくまでも個人的感想ですが。

 

不寛容な時代に「なった」のか?という問い

すごく難しいし、言い方次第ではそれこそ「酷いたたかれ方」をするお題ではあるけれど、あえて重箱の隅をつつくと、今が不寛容な時代になったのかというとそうではないと思っています。不寛容度合いというのは基本的には昔から変わらないし、不謹慎狩りに近いことは以前もあったし、それがコミュニティとしてのルールの原則なっていたり、ある一定の広さの地域や国家、それを上書きあるいは裏書きする宗教的規範にまで及んで過去ずっと人の行動を縛ってきたわけで、そう考えるとこれは実は洋の東西を問わないというところも実は昔から基本的に変わってない説を持っています。
あくまでも個人的には、ですが。

 

今ならではの「不寛容さ」の存在

ただしそれこそ30年前より今のほうが「不寛容さの表現」が早く伝わるようになったのは事実だと思います。
日刊の新聞や週刊誌、月刊誌といった紙媒体、あるいは噂話を含む口伝えや何らかの主張を持った人の講演や辻説法みたいな「本質的に事象が起きてから伝わるまでの時差を持っていた」手段しか無かった時代よりは早く伝わり、それを受け取った人の反応も同じ早さで伝わることによるスパイラルの速度は今だからこそあるものだとは思いますし、そこは間違いないと思っています。
あくまでも個人的感想ですが。

 

要は「寛容」の許容範囲とブレ幅じゃないのかな

ってことで、それらの背景を踏まえると、何が正しいとか何をよりどころにしてどこに向かうのが良いことなのかわからなくなってしまうのですが、息の詰まるような状況がなかった時代なんてなくて、あくまでもその度合いと受け止め方の違いだけとは思うんです。たとえばネットの普及に伴って過去数年で急速に不寛容な時代に「なった」とかの乱暴な話ではなく、元来「許容範囲での寛容さ」の中で生きてるわけで、ただし時代によって軸と許容範囲の幅が違ってきてると理解したほうがよいと思っています。そんな部分を全く意識せず「昔はこんなことはなかった」論を目にすると、なんだかとても残念な気持ちになります。
あくまでも個人的な感想ですが。

ということで、正直な話、「何がどうであれ昔は良かった今はこんなになっちまった論」なんて爆発すればよいのにとか思っちゃいます。
ただし個人的な今の立場や状況に思いをめぐらすと「昔の俺はこんなんじゃなかった」ブーメランに自分が直撃されてこれ以上無いくらい凹む情けなさなら持ち合わせている程度に弱気なのですが。

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