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通信業界特殊偵察部隊のモノゴトの見方、見え方、考え方

自分の立ち位置を外から見た経験は自分の中でどう活きてるんだろうと自問自答

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私が最初の海外出張を経験したのは1988年。まだ入社から3年目くらいの時です。色々な巡り合わせがあって私のところに話が来ました。勤務していたのは米国籍企業でしたが、行き先はフランスは南仏のニースにある同じロゴの研究施設。

それまでも数回海外に行ったことはありましたが、完全にプライベートな1回(新婚旅行でした)と完全団体行動が1回か2回。それに対してそのときは直前まで先輩に同行するはずが急遽単独で行くことになり、成田に当時あった出国審査ゲートの前のエスカレーターで足が震えたのを今でも思い出します。期間は1ヵ月弱。行く先に日本人はほぼ居ないし、仕事の現場はともかく施設のガードマンをはじめ街中では殆ど英語は通じない。一般的にフランス人は英語がわかっても喋ってくれない的な話もあるのですが、実際のところ田舎に行くとそもそも通じない。ニースですら殆ど通じない。

さぁどうするよ自分、ってところが自分のある意味「世界の中にいる自分」を意識した最初だったかもしれません。もちろん、学生の頃からガンガン海外に行っていたり、あるいは留学を含め海外に住んでいたりしている方に較べると子供みたいな経験ですが。

 

自分がどう見られているのか、自分が回りをどう見るのか という視点が変わった

たとえばフランスは当時は(多分今も)あまり他人に干渉しないというのはある程度事実だと思います。知らん奴と関わっても面倒くさいし、そもそもアジア人の顔だと自国の旧植民地をはじめとする場所からの移民か何かじゃねーのか?とか、でも東南アジアっぽくないけどお前何しに来たんだよ的なところを(勝手に)感じてビビッてたりしたのは正直な話。そりゃそうです。フランス語は簡単な幾つかの挨拶と1から5まで数えることしかできず、周りが何を言ってるのかさっぱり解らない。ホテルはマトモなところだったのですが、英語の放送は当時CNNだけであとは全部フランス語。天気予報は画面を見て明日は晴れで気温は何度なのかってのが判る程度。

そもそも海外一人旅できるくらいの根性があれば全然別ですが、気弱な私にはそのひとつひとつがエラくショックなわけで、かつ強烈な刺激になったのは事実です。因みにテレビのニュースとか見てて、もちろん何を言ってるのかさっぱり解らないのですが、とりあえず国内ニュースが中心ってのは何処の国も同じだなーと思いつつ、挟まる海外ネタの中心は旧宗主国ネタが多く、更には当時イスラムゲリラが欧州各国でかなり激しくテロ活動をやっていたのでその関係で中東諸国のネタが続き… アジアについては殆ど何も無いという状況。

そりゃそうです。極東の島国やその周辺で起きる事なんて、特に当時はあまり関心はない。SONYやTOYOTAは誰でも知ってるけれど、それが何処の国なのかってのも結構いい加減。多分基本的にそういうところって変わっていないと思うのですが、人の話で聞くよりもそういった環境に「仕事のために」行ってる自分が見たもの感じたものってのは、たぶん「一般的な旅行者」とは違ったんじゃないのかなぁと勝手に思っています。

もちろん、そんなの誰でも思うだろという意見もあるとは思いますが。

 

時代背景をちょっとだけ

1988年当時、まだロシアはソビエト連邦の中心国家で、ベルリンには普通に壁があって西ベルリンには日本から直行はできず、それでもシベリアの上を飛べるようになったので日本から欧州への直接フライトが増えてアンカレッジ経由便が急激に減少していた頃。リクルート事件が発覚した中、当時竹下登さんが日本の首相で、ロナルド・レーガンが合衆国大統領。東京ディズニーランドは開園5年目で、南海ホークスと阪急ブレーブスがドナドナになって、日米協定で90日以内の観光目的の渡米のビザが免除になった年。当然ですがフランスに入国するにはビザが必要でした。

それらを考えると「思えば遠くへ来たもんだ」と一週間くらい感慨に耽れそうですが、まぁそんだこんだのコンテキストを踏まえて今があるわけで、そんな時代背景で見た欧州、そんな欧州から見えた世界ってのは今とはかなり違うのは確かだとは思います。

 

で、一体そこで何を見たのか?何を学んだのか?

ということでそんな立ち位置から何が見えたかを一言で言うのは難しいのですが、敢えて乱暴に言うと

「そもそもの前提として自分と違う考えの人が殆どなのだ」

というところでしょうか。当たり前と言ってしまえばそれまですが、人種や言語宗教その他まったく異なる場所に突然紛れ込んで短期間仕事をするという場を経験したことを通じて結局これがコミュニケーションの基本だという事を学んだのは間違いないです。

もちろん今的に言う共感を得るところの意味は解るし、相互にそれぞれの立場立ち位置について理解する努力は必要だと思うし、世の中を広く眺めてみてもそれ自体当時も今も変わらないとは思うのですが、逆に思想信条その他諸々の多様性を認めないと話が先に進まないことも多くて、でもそれをネグって何か働きかけようとして、それが意図した形で進まないのを理解できなくて憤慨しているような事が以前よりも目立つんじゃないのか?と思ったりする今日この頃です。

いや、そんな事を気にするような歳になったのかもしれませんが。

 

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