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ヴィジュアル、サウンド、テキスト、コードの間を彷徨いながら、感じたこと考えたことを綴ります。

愛、について思う。

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さいきんmixiとFacebookを往復しつつ、切り分けに右往左往している私である。
GUIだけ見れば、mixiの方が、メニューの視覚的な(色彩による)グループ分けがなされているので、使いやすい。
だが、用途が、違う。切り分けざるをえない。

くだんのmixiのトップページには、いつもなら映画や楽しい商品の広告が表示されているが、ここのところは、DV相談受付広告が表示されている。

こういった情報を目にすると、思い出すことがある。
その昔、相方の勤務先がパートを募集した時、何かにつけて夫君が間に入り、直接連絡のとれない応募者がいた。遠目に見ていた私には、夫君が愛と束縛を混同しているように感じられた。そのときの、違和感。

「愛」とは何ぞや?

私は、ヒトにとって「もっとも貴重なもの」を、他者に分け与えようとする意志であると思っている。
「もっとも貴重なもの」とは、人生の「時間」である。
愛とは、自分の貴重な人生の時間を、他者に分け与えようとする意志であると思っている。

仕事、介護、育児、家事、ボランティア。他者のために時間を使う意志があるなら、それが愛ではないか。
自分の時間を使って働いて得た金で、プレゼントを買いたい。道を尋ねる人に、しばし時間を割いて一緒に歩きたい。友人の相談に乗りたい。
自分だけのために使う人生の時間は減るけれども、それでいいと思う、その意志が、愛ではないか。

ここで「行動」とは書かず「意志」と書くのは、病気や怪我や後遺症のために、意志はあっても行動することのかなわない人たちがいるからである。
だから、もちろん、行動可能な身体があるなら、行動を伴わない意志は、愛ではないように思う。

対人関係は、バランスの上に成立している。
それが二者関係であれば、互いの時間を、時にはたくさん与えたり、時にはたくさん奪ったりすることもあろう。
だが、最終的に、与え過ぎず、奪い過ぎていない結果に落ち着くであろうことが、双方に予測可能であれば、関係は維持されうる。

誰にでも、ここまでは与えたいが、ここからは無理、という境界線がある。
その境界線を、相手の意志を確認することなく、一方的に設定すると、ハラスメントになってしまう。

愛を与え過ぎる人は、耐えて自分の人生を台無しにすることを、美徳と呼ぶかもしれない。だが、それは、自らの人生と、自分が生まれるまでに苦難の道を歩んで生命をつないできたであろう数多くの人々の人生を、軽視することになりはしないか。

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