ユーザー参加型ウェブ・ソーシャルウェブを考察するブログ
最近インドの人と交流する機会が多いのですが、先日あるインド人の知人と日本とインドの将来について話していたとき、彼はこんなことを言いました。いわく、「日本の教育はpractical(実用的)だけど、インドの教育はtheoretical(理論的)だ」と。
私には日本の教育が実用的(=社会に出てから役に立つ)だなんて思えませんが、彼が言うには、「インド人は、「なぜそうなのか」「どのような原理があって、それが起こっているのか」ということを理解しない限り、次のトピックに移らない」けど、「日本人は結論を覚えて次に進む」んだと。まぁそうですね。
彼はそうした日本の教育を若干肯定的に捉えていましたが、「日本の教育は終っている」という意見が全然珍しくないこのご時世にあって、少し彼の意見は新鮮に感じました。ちなみに彼は日本の大学院で修士号を取得しています。
取り組む課題が複雑であればあるほど、自分の判断基準を持っていないと、何も解決できなくなります。その自分の判断基準ってのは、ものごとの原理や理論について自分でじっくり考えて行く中で、徐々に形作られるものですよね。
インドにも少なからず結論暗記型の教育はあると思いますが、それが通用するのは日本や欧米という先例が前を走っている間だけでしょう。彼が日本型教育に理解を示したのは、まだインドがフォロワー(後続)としての性格をも持っているからでしょうか?それとも彼はフォロワーとしての性格を脱しつつあるインドから見て、日本の置かれるマズい状況を暗示したのでしょうか?
先例のないポジションを走り続けられるようになるためには、結論暗記型の教育をやめなければなりません。日本はとっくに先例を失っているんですが、教育は従来スタイルのままです。一方インドは、これからです。「インド人は優秀だが、イノベーティブ(革新的)ではない」という意見もありますが、今まさに変革期。IT、通信、バイオなど、外資がインド内に築くR&D拠点も増えています。
私は日頃、企業向けソフトウェアという複雑な物体の開発をしているのですが、複雑であればあるほどシンプルな判断基準が大事だと思うことがよくあります。要するに「この仕様はユーザーのためになっているのか」ということです。細かい日々の作業をしていると自分の中の重要な判断基準を忘れそうになることもあるので、振り返ってみることも大事です。理論的というよりも、自分の中に醸成した基準を頼りにして、物事を解決するということ。会話からこういったことを連想しました。
Special
- PR -| 13時15分41秒 | 2008/09/26 15:24 |
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日本の教育が社会に出てから役に立たないと思われているのも、安易な受験対策として結論暗記型に走っているからではないでしょうか。 | |
| Masaharu | 2008/09/26 18:47 |
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>13時15分41秒さん コメントありがとうございます。 | |
| イーヨ | 2008/09/30 10:44 |
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示唆に富んだエントリーが多いです。 日本人が行う学習は、演繹と帰納のバランス面に注目すると、帰納側に寄っている気がします。個人的には、試験で良い点を取るために一通り理論を学んだ後、すぐに問題集に取り掛かることが多いです。これは『促成された基準や体系』の刷り込みなのかも。日本の客観試験対策教材は、質、量ともに過剰サービスで毒にも薬にもなるようです。 「この仕様はユーザーのためになっているのか」と自問するのは良い事だと思います。調査や改善は目的を度忘れして、効果から離れて、一人歩きすることが多々あります。でも、食うために不本意なシステム構築をしなければならない時もありますね。 | |
| Masaharu | 2008/09/30 13:35 |
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>イーヨさん コメントありがとうございます。 普段の仕事を進める上では、演繹的な判断を行うと、結論にも自信が持てますし、筋肉質でスピード感のあるアウトプットができるように思います。 | |

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