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Web2.0時代の企業広報・コミュニケーションと情報活用を再考する

日本人の価値観と組織運営スタイルの相克

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 ■実は、個人優先の日本人

日本人は自ら個人で気づき、気を利かす能力で仕事なるものの完成度を上げ、洗練させてきた。明治の近代工業はおろか江戸時代の職人の世界、浮世絵の世界、さらには飛騨高山のからくり人形、さらにさらに遡れば運慶の写実的な仏像彫刻などなど、いずれも内心を見つめ気づいてそれを表現してきた。そして現代でも、モノづくりの世界での「痛みのない注射針」や「燕三条の磨き屋シンジケート」、「H2ロケットエンジンの燃焼フード」「超精密家庭用プラネタリウム」、「偽札鑑定機」などみな現代の名工「匠」と呼ぶに相応しい。

かの日本海軍のゼロ戦や陸軍の隼などの戦闘機に優秀と言われるものが多い。しかし、そこにあった設計思想は、最優先で軽快な運動性、つまり一騎打ちの格闘戦(巴戦)性能だった。これは、集団行動が不得手で一騎打ちを好み、他人にそうそうまねのできない名人芸を尊重する、日本人の性格、美学に裏打ちされたものだった。

何といっても、4-500年前には「我は関八州相模の国の何某だ。名をなのれ!」と叫んでから、戦(いくさ)に臨んできた民族だ。多人数で当たれば必ず勝てるのに、まさに伝統である。

 ■集団行動は不得意

実は、現代社会の企業に生きる我々現代人も、決められたルールに則って集団行動するのは不得意だ。生産性高く集団行動しようとするには、原理原則をきめ、守るべきルールと役割分担を決定し、自ら行動を統制もしくは調整しなくてはならない。そして初めてスムーズな組織行動が可能になる。しかし、日本人は自分自身に対しての気づきを自己昇華し仕事の完成度を上げていくという一種の職人的行動様式を得意とする。一転、この気質は他人に仕事をしてもらうとなると、その気づきは口うるさい舅(しゅうと)と化してしまう。          ここで余談だが、「菊と刀」で日本人論を展開したルース・ベネディクトは、日本人を集団主義とし日本人すらそのような考えを持つようだが、これは理解不足というものだろう。集団行動の不得意な「集団主義」はちょっと滑稽である。

■神輿に担がれるボス

これを現代の企業社会に当てはめてみると、一担当者として職務についているときはカミソリのように鋭く立ち回って仕事をこなしボスを目指していく。ボトムアップの現場積み上げ方式によって地位が上がれば上がるほどに神輿(みこし)に担がれて、ボスとなった暁には、細かいことには口を出さず、組織のまとめ役に専念し権威の象徴として納まることをよしとされる。つまり、細かいことに口出しすると、現場のことは我々にお任せくださいとか言われて、腹が据わっていないとか人に仕事を任せられないとか言われて嫌われる。係長兼代表取締役副社長とかいわれて皮肉られたりもする。

 ■実体と権威の分業

これはどういうことかというと、業務の実体実権が現場にあって、管理者は権威をもって信頼関係をベースにバランスしているということに他ならない。

日本企業は多かれ少なかれこのようなバランスの上に組織のヒエラルキー構造が構築されている。企業の組織ばかりでなく、これは日本社会に広くみられる現象で、天皇と国民の関係も、総理と国会議員でも、江戸時代の武士と庶民の関係も、そしてサラリーマン亭主と専業主婦も同じである。

欧米人は日本人女性と結婚して最大の衝撃の一つは、給料を全部渡せと言われた時だという。欧米では必要な都度か一週間分を妻に手渡すというのが当たり前だからである。給料を全て手渡してしまっては、実権が亭主殿にあるとはいえないという。              「結婚するまで分からなかったが、日本女性は実はストロング!」とは、アメリカ人男性が芝生の上でバギーを押しながら私に語った科白(セリフ)である。

 ■無自覚の価値観

さて、昨今、成果主義制度の導入やフラットな組織とそれに伴う権限付与などはどこでも見られるが、不本意な結果があちらこちらに散見されるのはどういうことだろうか。我々の行動様式や価値観と無関係ではないとは言えないだろう。

我々の価値観や行動規範はここ十年くらいで変貌を遂げ、価値観の転換がされたと考えるべきか?それとも、従来通りの価値観を持ち続けていると認識すべきなのだろうか?

私は日本企業やその経営者に価値観の転換があったとは到底思えない。

企業が経営陣以下新入社員に至るまでその価値観を転換するには、相応の覚悟がなされ、転換するとの宣言がなされ、企業とそれを支える社会を巻き込んで取り組まれなければ無理な注文ではないかと感じる。

その実現のためには、たとえば次のような取り組みがあってもいいはずだ。それは、企業の意志決定のプロセスと組織運営、さらには幹部登用のやり方、さらには社長自ら神輿(みこし)に乗って業務プロセスに直接責任を持てる状態ではなかったということを含め企業変革の必要性を経営最高責任者が社員に語り、このような状態を放置して将来に禍根を残すわけにはいかないと説明し、マネジメントの価値観、やり様を変革すると宣言するべきではないのか?

 ■無自覚が引き起こす形骸化

実は多くの企業で経営マネジメントそのものが多かれ少なかれ形骸化していて、成果主義制度の導入ひとつとっても、仕事の生産性を追求するという目的が忘れ去られ、賃金カットの手段だと経営者も社員も暗黙の了解事項となっているのではなかろうか。実体が部下の業務遂行にあって上長はその成果を受け取るという「実体と権威の分業」がなされている日本企業の多くでは、成果主義制度を導入しても上長が適切な課題を部下に設定して、それを評価することはほとんだ不可能だろう。

さらに重症なのは、制度の導入は価値観の転換とは無関係に達成でき、それに取り組んで成果が出せると自分自身をもだまし、潜在意識下に古い自分はいないと信じている企業経営者や幹部だろう。

この価値観の転換がなされないという問題が、日本版企業改革法(J-SOX)導入にも大きな影を指しているのではないだろうか。

次回、日本版企業改革法(J-SOX)への危惧について語っていきたい。

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