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約束(契約)の価値、一神教と八百万の世界観

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  前回は欧米企業においては機能集団運営が軸足だというお話をしたが、欧米社会の個人の問題を少し掘り下げてみたい。個人の価値観もしくは社会が個人に課する原則と言ってもいいかもしれない問題についてである。

神との約束

話は唐突のようだが、カイヤが川崎麻世との別居状態を告白した映像をテレビで見た。2月15日放送の日本テレビ系「NEWSリアルタイム」の収録映像だった。内容は、カイヤが夫である川崎麻世との別居に触れ、「このままにしておくわけにはいかない」と。さらに、離婚の可能性を聞かれ、カイヤは「神様にも約束したことだから・・・簡単には・・・」と神妙に話を続けた。

ここで、注目(刮目)していただきたい言葉がある。「神様にも約束した」の「も」である。

個人間の約束は、二者二者契約

実は、ここに欧米社会の個人を規定する基本原理の一つが潜んでいることを説明したい。

欧米社会は一神教社会つまりキリスト教かユダヤ教のもとに発展してきた。イスラム教も元は同じ神から生まれたので実は兄弟のようなものである。それはともかくとして。

カイヤは結婚をそして一生添い遂げることを、川崎麻世と合意し、次に神と約束したのである。神は川崎麻世とも約束したハズである。人間である本人同士の約束より神との約束が重大なことは言うまでもない。つまり基本は、神とカイヤ、神と川崎麻世という二者二者契約なのである。人間は、神とそれぞれ契約している。人間同士はいい加減だからかは知らないが、一神教信者はみな神と個別に契約しているのである。その契約の中に、人として生きることも含まれているのである。

つまり、人は神との契約で人となり、神の教えに基づいて、自律して生きることになり、神に責任を負って生きていくという次第なのである。

神との契約概念に基づく個人主義

 つまりこれが、キリスト教社会での個人主義というもので、日本人の考える手前勝手な自分主義とは、月とスッポン以上に違う。

また、契約履行つまり約束を守ることの価値観はモラルとして子供のころから徹底される。   その好例が、ディズニー映画の「リトルマーメイド」にある。主人公のヒロイン(人魚姫)のアリエルが、声と引き換えに人間の姿になるという「契約書」を海の悪魔アースラと取り交わす。私はこれを子どもと見ながら、アメリカ人の発想は、悪魔ともきちんと契約書を交わすので随分と律儀だと思った。そして、契約した以上、その約束は守らなければならない。命を賭けてでも、である。アリエルは実際に命を取られそうになる。江戸っ子なら、さしずめ、てやんでえ!と啖呵を切って姿をくらましてしまうところだ。

しかし、キリスト教社会では、神との契約も悪魔との契約も同じ重みを持つものなのだと知ることができた。

個人主義が支える機能体集団

 このことから、欧米の目的志向の合理的「機能集団」つまり企業と個人が雇用契約する際も、同じ考え方が適用されると言っていい。これはキリスト教信者でなくても欧米では社会規範や通念として成立しているので、仏教とでもヒンズー教徒でも従わざるを得ない。

個人個人が会社と契約しているので、マネジメントも必然的に個人個人単位ということになる。神との契約と同じように、二者二者契約なのだ。組織の機能はすべて個人単位にブレークダウンされるということとなり、マニアル化や業務項目が確定しないと人も雇えないし使えないということになるわけである。

このような個人主義の社会では、個人の成果主義はあまりにも当然であって、横の連携やコラボレーションはないことが前提となっている。だからこそ、別の切り口で努力をしようとするのであるが。

価値観共有化がとりわけ必要な日本人

 一方、日本社会は八百万の神の世界で実に人間臭い。というか、人間様は死んでも御利益のありそうな人物は、神に格上げになってしまう。そんな社会である。神と人間は同格のつまり人間様優先の社会となっている。神でなく人間様との約束が大事な社会である、ということは人間様さえ「約束守れなくてもしょうがないね!」と言ってくれれば、どんどん約束はなかったことにしていい社会なのである。したがって、赤信号皆で渡れば怖くない!となる。経営会議で決まったことでも、皆達成できないと見るやまったく悪びれずになかったことにしてしまう。また、皆がやっていることを、自分だけとがめられると運が悪かったと考えるか、開き直るかのどちらかであるのは理屈である。

つまり、物事上手く運んでいるとき経営者は神輿の乗っているだけでいいのだが、ハンドルを切らなければ横転してしまうようなときには、実に困った集団となってしまう。決めごとが徹底できない社会、成り行きか行きがかりでどんどん変えていっていい、誠にマネジメントしにくい人たちの作り出している社会なのだ。しかも、一神教のような神がいないと、社会に共通する座標軸はないに等しい。そこで、この日本社会で生まれ育った個人は自分だけが変な考えを持って仲間外れにならないよう、他人の動きを気にし、横並び意識が色濃く反映するのだと考えられる。

コミュニケーションの途絶が大組織を崩壊させる

こんな日本社会の特徴を踏まえて考えるに、コミュニケーションが途切れた日本人の典型的なビジネススタイルとは「みんなで渡れば式」が基本となって、「右肩上がり状況では俺が俺がの個人個人バラバラの行け行けドンドン」、「下降局面では顔の見えない集団体制」、「局面打開シーンではトップの権威主義的マネジメント」、上手く行かなくなった際には「引責辞任で済まなければガラガラポン!」ということになる。お約束のパターンである。

ここに欠落しているものがある。約束は守られねばならないという概念だ。そもそも、誰も誰に対しても契約概念に基づく約束をしていない。守ろうとしているというフリは上手い。従って、最後にふたを開けてみたら全然上手くいってなかったということはよくある。個人個人の役割分担も守らないので、当然に大組織での組織行動は得意ではない。さらに全体(社)最適行動は不得意である。というかまず出来ない。

 

 これが日本社会で生まれ育った私の、日本社会で育まれた企業への私の「自己診断」となる。

皆さん、ここまでくればどんな処方箋を出すべきか、もうおわかりでしょう。

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