「料理界の東大」辻調理師専門学校の祖にして、戦後の日本にフランス料理をもたらした偉人・辻静雄氏の生涯を綴った伝記「美味礼讃」(海老沢泰久著 文春文庫)という本が好きで、ここ何年間か、当社に新卒で入社する社員に差しあげている。
いまだになぜその本が好きなのか、読んだ方が良いと思うのかうまく説明できず、人生の教訓になるような美しい場面がたくさん出てくるとしかいいようが無いのだが、中でも私が一番好きな場面が、辻静雄氏が生徒に基本の大切さを説く場面だ。
(断っておくと、私は料理は激辛専門で、カレーかごった煮ぐらいしか作れないし、フランス料理のコースなどは、年に2〜3回食えば多い方で、食通でもない。「フォン・ド・ヴォー」がどういう味がするのかもよくわかっていない。だから説明にいい加減なところがあるかもしれない。)
辻静雄氏が、フランス料理の基本のソースの一つである「フォン・ド・ヴォー」の作り方を生徒に講義するのだが、まず最高の材料を使って、最高の手間をかけた、フランス流の最高の作り方を教える(本の中では、どのように手間をかけるかということが克明に描写され、頁からおいしそうな香りがしてくるが、ここでは書けないので割愛)。
次に、それを生徒に味わわせた上で、その最高のフォン・ド・ヴォーが、「スプーン一杯あたりいくらになると思うか?」という質問を生徒に投げかける。
生徒の一人は、「1円ぐらいだろう」と答えるのだが、答えは50円。このソースを使って、料理を作ると、一皿8千円から1万円になるという。ラーメンが100円、初任給が1万4、5千円の時代の話なので、相当高い。
そんな料理では誰も注文しない。それではどうするか?辻静雄は「手抜きをするんだよ」と教える。
(以下、海老沢泰久著「美味礼讃」 文春文庫 P.258より引用)
「(略)将来これ以上はないという料理をつくったとしても、それを食べてくれる客がいなかったら、商売として成立しないからだ。その場合、きみたちは店の立地条件や客層を考えて、それに合った原価で料理をつくらなければならない。しかし、どういう場合でも、こうあらねばならぬという本物の料理は知っておかねばならない。それを知らなかったら、どのぐらい手を抜くかということも分らないからだ。(略)」
そして「次の授業では、上手な手の抜き方を実施にやってみます」とその場をしめる。
ビジネスの妙をついた場面だと思う。職人が社会に出ると必ず悩む、理想と現実のギャップと、ギャップへの対処の仕方と、お客様の大切さをあらかじめ教えるとともに、理想とは何か、ということをしっかり覚えておくことが重要だと肝に銘じさせるのだ。逆にいえば、結果として同じ手抜き料理を作るのでも、漫然と、結果として手を抜くのではなく、何のために、どれだけ手抜きをしているのかということを意識しろということでもあろう。ソフトウェア開発にも多分に通じるところがあるように思う。
基本は何か、ということを人に伝えようとするときに、「とはいっても現実はこうはいかないよな」という思いが頭をよぎり、メッセージが弱くなってしまうことがある。あるいは、現実に追われて自ら基本をおろそかにしがちになってしまうことがある。現実と理想の折り合いをつけるのが面倒くさくなってただ正論を主張しがちになってしまうこともある。そんなとき、上の場面を思い出すようにしている。

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