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夏目房之介の「で?」

学習院大「現代学入門」「マンガにおける個人と国家」(2)

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2014.10. 30 現代学入門⑦ マンガにおける個人と国家 ②戦後マンガと国家の物語  夏目房之介

1)マンガにおける国家擬人化の現在

【図1】日丸屋秀和『AXIS POWERS ヘタリア2』幻冬舎 2008年 p14~15
【図2】同上『AXIS POWERS ヘタリア1』 p30

『AXIS POWERS ヘタリア』 米在住の日丸屋秀和(ひまるやひでかず)が、2006年頃から自身のウェブサイトで発表し始めた作品。2008年より日本で単行本化、2011年より雑誌連載。二次創作同人誌でも人気を博す。

「枢軸国(AXIS POWERS)」と呼ばれた日独伊三国同盟時代をおもに、各国のエスニック・ジョークを戯画化した4コマ中心のマンガ作品。「国民性」を表象する世界各国が各軍人=個人として擬人化されている。

 一見してわかるように、戦前までの各国の国家表象とは異なり、人物造形は日本マンガのある種の類型を踏襲し、欧米人、東洋人の差もはっきりわからない。日本のおたく系マンガの虚構世界観にエスニック・ジョークの世界観を流し込んだ形態で、直接的な政治風刺というより虚構世界の「遊び」感覚に新たなネタを持ち込んだ作品といえる。「分衆」化した大衆内の、おたく共同体の中で流通する虚構の「遊び」消費であり、高度消費社会での娯楽消費の対象と化した「国家」像といえるかもしれない。

2)戦争体験とマンガ 戦時下の「個人と国家」の戦後マンガへの影響

【図3】手塚治虫『幽霊男 前篇』 手塚治虫過去と未来イメージ展別冊図録『幽霊男/勝利の日まで』朝日新聞社 1995年 p101

 直前の場面で、溶け落ちるロボット「プポ」が、悪い博士に製造された自分達の心情を「日がな一日働かされ こき使われて 寂しく壊れてゆくのを待っているのですが、いっそ誰か一遍で壊してくれないか・・・・とさえ考えている程です」(原文カタカナ 引用者変更)と語る。1945年、動員された工場で大空襲を経験した16歳の手塚少年が感じていた矛盾感情が「プポ」に反映されているように読める。

 「激しくなる空襲や勤労動員のなかで、思春期の生命力を押し殺し、近い将来、お国のための「死」に投げ入れなければならない。あふれでようとする生命力と、それを断ち切るものの矛盾は、手塚の作家としての源泉だといってもいい。」夏目房之介『マンガと「戦争」』講談社 1997年 p15

 手塚治虫のマンガが戦後マンガに与えた大きな影響を思えば、手塚が個人として戦争という国家意志と直接相対して感じた矛盾感情は、戦後マンガの物語の駆動にも大きな影響をもたらしたといえるのではないか。【図4】手塚治虫『来るべき世界 宇宙大暗黒篇』不二書房 1951年 p140

 地球の破滅を前に、二大国の首脳が戦争終結と平和を叫ぶペシミシズム、ニヒリズムは、当時まだ20代前半の青年手塚が、戦争体験を通じ、個人として獲得したもののようにみえる。

 個人と国家が直接向きあう体験は、国家意思の被害者体験としての戦争体験マンガ、前谷惟光『ロボット三等兵』や水木しげるの戦記マンガなどにも見られ、戦後子供マンガにも影を落としている。

【図5】前谷惟光『ロボット三等兵』 「前谷惟光漫画全集①」寿書房 1957年 引用出典 「第2期現代漫画11 戦争漫画傑作集」筑摩書房 1970年 p42

【図6】水木しげる『ダンピール海峡』 「文春漫画読本」文芸春秋社 1970年 引用出典 同上 p166

 50~60年代の少年少女向けマンガには多く父母のいない子どもが描かれたが、これも戦争の結果、実際に父母を失った子どもたちが多かった時代を反映しているといえる。これも「個人と国家」の関係であろうか。

3)60~70年代若者文化とマンガ 「国家」と「革命」

 60年代、高度成長期をへて豊かになる中、戦後ベビーブーマーが次第に青年化。世界的な「若者文化」の潮流に歩をあわせ、学生運動、反体制志向が若者をとらえ、ロックやフォークによる自己主張と同様に、マンガの青年化がおこる。60年代後半、「大学生がマンガを読む」といわれ始め、大学進学率上昇とマスプロ化の中で、大量の「知的大衆」化がおこり、彼らが先鋭的なマンガを支持することで青年マンガ市場が活気をもった。「若者文化」の一角としてマンガが戦後世代の代弁メディアとなる。白土三平らの「月刊漫画ガロ」(青林堂 64年~)、手塚主宰の「COM」(虫プロ商事 66年~71年)、青年向けの劇画マンガ誌が青年マンガを開拓し、その中で戦後世代の政治意識に映る「国家」への問いがマンガ作品としてあらわれてくる。

【図7】林静一『吾が母は』 「月刊漫画ガロ」1968年4月号 図版出典 林静一『赤色エレジー』小学館文庫 2000年 p245, p268

 1945年旧満州生まれの林は、敗戦と占領のトラウマを蛙家族の息子を主人公に描いた。息子は両親(旧日本帝国)の死とともに「ゴリラ」(米国)に引き渡され、やがて自由と繁栄を手にするが、ゴリラから「山の向こうの怪物」(共産主義)との戦いへの協力を依頼される。そこに今の自分に必要な「充実」を感じるが、一瞬亡き父母の幻影に体がしびれる。しかし、最後に彼がみたのはアメリカ文化の表象と化した「母」だった。

 敗戦国の少年として育った当時の青年達は、大なり小なり、こうした矛盾感情を持ったかもしれない。自身アメリカ文化の強い影響下に育ち、一方で愛しながら、しかし「国家」の自立をめぐって米国に激しい憎悪を潜在させている。ここでは米国と敗戦が戦後日本の矛盾を抱えた国家像をもたらし、そこでの矛盾感情が戯画化された寓話として描かれている。マンガが青年個人の表現として選ばれ、そこで国家像が語られている。

【図8】宮谷一彦『太陽への狙撃』 「ヤングコミック」1969年連載 図版出典 宮谷一彦『性蝕記』(野坂昭如文、米倉斉加年絵 おとなの絵草紙「マッチ売りの少女」) 「COM」増刊 1971年

 青年マンガの旗手として60年代末から70年代前半まで戦後世代の先鋭的なマンガ読者に支持された宮谷(1945年生)が、現代日本に起きる「革命」を革命側テロリストを主人公に描いた異色作。学生運動最盛期の中でも、革命劇をアクション劇画として描いた作品は少ない。ここで日本国家の転覆は、国家の政治的中心人物たちの暗殺として表現される。この作品が滑稽な戯画にしか見えなかったとすれば、その分、すでに「国家」は政治家個人の集合ではなく、自分(個人)を取り巻く不可視の制度として感じられていたといえよう。

山上たつひこ(1947年生)は、『光る風』(「週刊少年マガジン」1970年)で軍国主義化する現代日本の近未来劇を描いたが、その構造は米国による日本支配の面を除けば、ほぼ戦前~戦中日本のファシズム化過程をなぞったものだった。実際、当時多くの青年達が国家をとらえようとして明治~昭和前期の歴史をイメージしていた。かわぐちかいじ(1948年生)もまた、青年劇画誌に明治から昭和前期のテロ事件を主題に描いてきた。

【図9】山上かつひこ『光る風』小学館クリエイティブ  2008年 p448【図10】かわぐちかいじ『戒厳令 後編』70年代前半? 引用出典 『テロルの系譜 日本暗殺史』朝日新聞出版 2008年 p292

4)高度消費社会への転換 大友克洋

【図11】矢作俊彦、大友克洋『気分はもう戦争』 「週刊漫画アクション」1980~81年 図像出典 双葉社版 1982年 p326

 勝手に義勇軍を行う日本人と米国人の三人組が大陸を流浪し、自衛隊からの勧誘を断る場面。

 「革命」を画像化しようとした青年マンガ(劇画)の熱は、70年代初頭の連合赤軍のリンチ殺人事件などで急速に冷え、個人や小集団による文化革命(批評運動やコミケの創立)に移行する。やがて高度消費社会に一気に突入する中で、「国家」と「個人」は決定的な距離感をもって感じられるようになる。

この作品では、「気分」だけで戦争を選ぶ「個人」が様々な角度から描かれる。「戦争」という「国家」の権利は、すでに個々人にとって「趣味」や「美意識」の問題に過ぎないという転倒が行われている。政治も社会貢献も、もはや高邁な理想理念だけでは成り立たず、ただ趣味性において「好き」であるかどうかが選択の基準である時代、80年代以降日本に実現するそのような社会を預言的にフィクション化している。

「国家」と「個人」の間にある何層にもわたる巨大な消費文化と消費大衆、「一億総中流化」といわれ、個人にとって画一化と多様化が同時に進む。消費が経済の中心課題となった社会では、「個人」の領域がすべてにわたって大きくなり、「国家」は相対的にその権威や像を縮小させる。そうした隔絶感が常態化したからこそ、のちの『ヘタリア』のような戯画化も可能だったのかもしれない。

5)戦後世代の戦後「国家」への問い かわぐちかいじ

 【図12】かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』1 講談社漫画文庫 1998年 p320~321

 かわぐちが、青年~大人向け娯楽マンガの主流に食い込んでいった80年代、彼は仮想現実のシミュレーション物語によって、あらためて戦後日本の国家像を問い返し始める。『沈黙の艦隊』(「モーニング」1988~96年)では、米国からの自立を目指し、原潜ごと「独立」する主人公が描かれる。日本再占領を目指す米国に対抗し、日本の金と技術で作らせた原潜を乗っ取った元自衛官・海江田艦長が、戦闘国家「やまと」として独立。世界政治に挑戦し、最終的に国連会場で米大統領を対峙し、「世界国家」構想を語る。彼は、「やまと」を国連所属の抑止軍事力として、世界の国家群を解体しようとするが、最後に暗殺される。

 米国へのアンビバレンツな感情と、国連への理想の投影は、かわぐちだけではなく戦後の少年マンガにしばしばあらわれている(小沢さとる『サブマリン707』「週刊少年サンデー 1963~65年など)。また、『沈黙の艦隊』内での「やまと」の戦闘にはあきらかに「専守防衛」理念の投影が感じられる。かわぐちは『ジパング』(「モーニング」2000~09年)でも、戦時中にタイムスリップした最新海上自衛艦の戦闘において「専守防衛」理念を試すかのような展開を描いている。

 日本の戦後国家像には、米国への根強い愛憎と再占領の恐怖=日本の自立性への疑問と欲求が感じられる。また、かわぐちかいじには、戦後日本国家を憲法9条と「専守防衛」思想においてとらえ、国連との関係で「国家」を開きたいという欲望が感じられる。『太陽の黙示録』(「ビッグコミック 2002~10年)では、ついに日本国家を天災によって解体し、米中による分断支配と南北対立、さらにそこでの難民国家の創設を仮想するにいたる。

【図13】かわぐちかいじ『太陽の黙示録』5 小学館 2004年 p158

 小松左京『日本沈没』(1973年)で日本人に定着したともいえる破滅物語を受け継ぎ、地殻変動による日本列島の破壊、日本人の世界難民化、その後の国家分断を描く。列島は南北に分かれ、北を中国が、南を米国が支配的に復興し、やがて南北分断国家となる(東西ドイツ、南北朝鮮の現代日本版)。その結果、海上自衛隊は南に、陸上自衛隊は北に属し分裂。陸自の幹部はやがてクーデターで統一国軍を目指すが挫折。

【図14】同上 11 2006年 p40

  物語は『三国志演義』をベースに、以下の人物群によって展開する。

柳舷一郎(劉備) 大震災で親とはぐれ、台湾で難民運動を組織。南北日本の境界地域(旧関東)に世界の難民を帰還させ、「非暴力不服従」(インドの独立運動でのマハトマ・ガンディーの思想)を掲げ、軍事力なき理想国家を目指して、国連に主権を預ける形で「再生特区日本」を成立させる。

葛城亮(諸葛亮孔明) 韓国日本人難民キャンプのリーダーで、のち柳の天才的参謀となる。
羽田遼太郎(関羽) 元台湾警察刑事で日本人。柳とともに行動し、再生特区の警務セクター代表。
張(チャン)(張飛) 台湾黒社会の一員だったが柳の義侠に惚れて行動を共にする。同上農務セクター代表。
宗方操(曹操) 破壊された日本に「自由」を感じ、米国主導の南日本に非米政権をたてる。柳のライバル。
董藤卓也(董卓) 北日本で頭角をあらわし、一時独裁国家を作り上げるが、呂布役の陸自幹部に殺される。

【図15~16】登場人物紹介 同上 13 2007年 p13、「建国編」2 2008年 p4~5

「国家」像としての特徴

①戦後「国家」への不信と絶望→宗方は国家の破滅をすべてチャラになった「自由」ととらえる

【図17】同上 「建国編」9 p55 「壮大な実験」としての仮想物語

 絶望の裏返しとしての「自立」の欲望=米国からの自立「安保体制のリセット」

【図18】同上 「建国編」5 p196

②国連を介した非軍事国家(戦後憲法の理想的実現?)としての「再生特区」 宗方とは逆の国家像

【図19】同上 「建国編」4 p80 国連安保理で南日本=宗方が、再生特区の支配をもくろみ、南北の主権の及ばない「グレイ・エリア」である難民特区(柳が指導)に与える場面。
【図20~21】同上 p109、p112 帰還難民の特区代表として柳が「独立」を望まぬかわりに、南から与えられた主権を国連に預けると表明。

 戦後日本国家の像は、敗戦によって得られた「理想」の追求と、現実の世界関係(国家間関係)のあいだで揺れ動く。また、この作品において大衆娯楽性を保証するのは『三国志演義』の「義侠」を軸にした人間関係で、古代的な「個人=国家」の世界観が使われている。

 青年マンガが獲得してきた政治シミュレーションの仮想構造に、戦後の国家問題(イスラエル建国とパレスチナ問題、東西ドイツと南北朝鮮、中国の大国化と米国型グローバリゼイションなど)を繰り込み、「壮大な実験」を試みた。このシミュレーションゲーム的な娯楽には、とりわけ80年代以降の現実世界の多層化が投影され、虚構世界が次第に強く「並行世界」化した現象をみることができる。「国家」像の相対化は、実際に経済文化のグローバル化の中で起きており、それは個人レベルの想像力にも影響していると思われる。いわば、高度消費化した社会での、多層化した世界観を反映している。

 この国の青年マンガに、国際政治のシミュレーション的娯楽を本格的にもたらしたのは、さいとうたかを『ゴルゴ13』(「ビッグコミック」 1969~ 連載中)だが、そこでは国際的暗殺者の没価値的なスタンスこそが娯楽性を保証していた。かわぐちかいじは、物語内で国際政治の「価値」を大胆に問うている。そうしたマンガが、必ずしも作者の政治的メッセージとして一義的に受容されるのではなく、娯楽として受容されているところに、戦後マンガの読者の成熟をみることができる。

 かわぐちかいじの作品群が示すのは、大衆娯楽として成熟した日本マンガにおいて、「たかがマンガ(娯楽性)」と「されどマンガ(真実性ないし妥当性)」の両義性が、意図的に使われ、また読者もその両義性を知った上で楽しんでいるという大衆文化の水準である。「国家」と「個人」の関係は、現代日本のマンガにおいて、楽しみながら仮想の真実性・妥当性をイメージし、消費する対象となっている。

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