オルタナティブ・ブログ > 夏目房之介の「で?」 >

夏目房之介の「で?」

2014前期花園大学集中講義レジュメ

»

以下は、花園大学前期の集中講義レジュメです。今回、初の試みで、短編マンガをその場で読んでもらい、学生たちから意見感想を引き出しながら、作品分析の演習をするという講義にしてみました。
結論からいうと、ゼミで1~2限であればともかく、半日これを続けるのはちょっとしんどかったです。でも、学生たちのレポートを読むと、それなりに分析の可能性を示し、何人かは分析能力の獲得を感じたようです。短編の選択も、あまり昔のものでなければ、もう少しうまくいくかもしれません。学生さんは自分の読みを歴史的に相対化することは普通できないので、わかりやすいものを選んだほうがよかったようです。でも、自分の読みが歴史的に成立したリテラシーであるということを認識できないと作品分析は難しいのも事実ですが。
ちなみに、1限で2作品は、予想通り無理で、結局最後の作品はできませんでした。

2014.7.30 京都・花園大学夏季集中図像学講義 短編マンガを読んで分析してみる 夏目房之介

①読んでみる(10分) ②語ってみる(15分) ③分析してみる(20分) 計45分 1限2作品

つげ義春『李さん一家』p12

やまだ紫『ときどき陽だまりで』p6

逢坂みえこ『夢の秘密基地』p20

久住昌之・原作、谷口ジロー・作画『孤独のグルメ 第12話 東京都板橋区大山町のハンバーグ・ランチ』p9

萩尾望都『半神』p16

とり・みき『Mighty TOPIO』p8

討議~小論文

つげ義春『李さん一家』p12 初出「月刊漫画ガロ」(青林堂)1967年6月号 

 つげ義春 1937(昭和12)年東京生。小学校卒業後、メッキ工など様々な職を転々とし、55(昭和30)年若木書房より貸本漫画家としてデビュー。貸本マンガから、64年創刊の「ガロ」に短編を発表し始め、66年頃より一部マンガ愛好家から注目を集め始める。70年代後半から作品発表が少なくなり、80年代以降ほぼマンガを描いていない。にもかかわらず現在に至るまで一部で人気を保つ稀有な作家。

キイワード 超俗的主題 細密な陰影をもった風景描写 語り手の青年の意味 ラストのめくり効果

 〈落ちこぼれというか、世の中外れちゃった方が生きやすいんじゃないかっていうような気分はこの頃もありましたね。[略] けっきょくこれは当時としては連作にするつもりでいたんですよ。だから、もし連作で続いていたら、後年の『無能の人』みたいな感じになるんですよ。〉つげ義春、権藤晋『つげ義春漫画術 下』ワイズ出版 93年 p70

〈[つげ]だけど、このラストを作ったことで、終わっちゃったわけです。

 ―― [権藤]ああ、続編が描けなくなっちゃったんですね?

 というより腹案はあったんですけれど、やる必要がまったくないと思っちゃったんですよ。その落ちこぼれ的なことを一応連作で考えていたけれども、それとはまったく関係のないストーリーの技法として、このラスト持ってきたら、後のやつはもう描く必要ない。〉同上 p70,72,74

〈―― 一見作者と思える青年はこの作品で初めて出てくるんですね。

 そうですね。作品の発想が、自分の内面とからんでくるようになったからですね。〉同上 p71

〈でも、これを描いたとき、ストーリー・マンガの究極まで自分ではいったようなつもりで、ストーリー論がそのときにできたんですよね。それで、それを文章でまとめておけばよかったと思うんだけれど・・・・。[略]「迷路」[貸本マンガ誌]の頃からしばしばストーリー作りに行き詰っていたんですが、ここでもって、ついに完成したというような気持ちになって、ストーリー論を書きたいなと思っていたんですけれども、いまきれいに忘れちゃったんですよ(笑)。〉p75 [ ]内引用者註 以下同じ

やまだ紫『ときどき陽だまりで』p6 初出「ガロ」79年2・3月合併号「性悪猫①」

 やまだ紫 1948(昭和23)年東京生。69年「COM」入選。同人誌に作品を発表し、71年「ガロ」、72年「ビッグコミック」入選。結婚出産により休筆後、78年復帰。2006年から京都精華大学マンガ学部教授。2009年急逝。『ときどき』は、ミニコミマンガ誌「あっぷる・こあ」73年春号掲載『性悪猫』4頁を改稿し、復帰後発表(中野晴行「マンガで描かれた詩」 やまだ紫『性悪猫』小学館 09年 所収による)。

キイワード 猫に仮託するもの 独特な語り・台詞の口調 写実的な猫描写と擬人化

 〈この独特な言葉遣いと、新鮮な感覚、認識には男たちは完全に脱帽せざるを得ない。こういう繊細な感性によって現実が新しく発見された場合にのみ、ひとは自立の精神をかいま見る。内部世界が論理化されているからこそ、外部世界を明晰に論理化することが可能なのである。[略]憤ったり、すねたり、思索したり、孤独に沈む性悪な猫たちは、性悪女を自覚する彼女の分身であるか、または外部に厳然として存在する他者である。単純な擬人化でもないし、猫に仮託して想いを語るというのでもない。託すべき想いと託される猫との間には距離があり、両者のモノローグが交響し、一種静謐な詩画の世界が現出するというのが氏の世界なのだ。〉齋藤愼爾「生への苦い覚醒と愛を描く」 やまだ紫『しんきらり』小学館 09年 所収 p345,347)

逢坂みえこ『夢の秘密基地』p20  初出「ビッグコミックスペリオール」2009年14号

 逢坂みえこ 1957(昭和32)年大阪生。82年、集英社「ぶーけ」デビュー後、「モーニング」「ビッグコミックオリジナル」「コーラス」など、成年向け男性・女性誌に作品発表。『夢の』は、「ビッグコミックスペリオール」誌上の「秘密基地」テーマによる各作家連作シリーズ中に発表し、『短編集 hi mi tsu ki chi ヒミツキチ』(小学館 2011年)に所収。

キイワード 「秘密基地」の妄想性 簡略な絵と余白の抜け、アングルの工夫 イメージの転換と投影

久住昌之・原作、谷口ジロー・作画『孤独のグルメ 第12話 東京都板橋区大山町のハンバーグ・ランチ』p9

 久住昌之 1958(昭和33)年東京生。「美学校」に通い、同期生泉晴紀(作画)と組み「泉昌之」名で「ガロ」にデビュー。83年『かっこいいスキヤキ』(青林堂)上梓。漫画家、原作者、デザイン、バンド活動、TV出演など多岐に活躍。谷口とのコンビで各誌に連作した『孤独のグルメ』は静かなブームとなり、2012年松重豊主演でTVドラマ化し、音楽も担当。現在第4シリーズまで製作。

 谷口ジロー 1947(昭和22)年鳥取市生。71年デビュー。『ブランカ』、『歩く人』、『遥かな町へ』、関川夏央原作『事件屋稼業』『「坊っちゃん」の時代』、遠崎史郎原作『K』、など、多岐にわたり作品を発表。近年ではフランスでの評価が高く、メビウスとの共作など世界的なマンガ家として活躍中。久住原作は異色の組み合わせで、地味ながら長期の人気作となる。

キイワード 精緻な風景、人物描写 コマの多さ 背景のディテールの意味 食事の思想 「原作」とマンガ

 〈久住 それは俺、『孤独のグルメ』を書いて、他人のマンガも見たりして思ったんだけど、食べ物のマンガで食べているシーンって、濡れ場というか・・・・セックスシーンなんですよね。〉「特別対談 谷口ジロー×川上弘美×久住昌之」 久住、谷口『孤独のグルメ【新装版】』扶桑社 2008年 p197

 〈谷口 描いたことのないものだったので、何で私にこういう依頼が来るのかなと思ったの(笑)。だからどうしていいかわからないまま始めたんです。実は、キャラクターの顔とかも、いろいろ悩んだりして、最初に担当編集者に言われたのは「ハードボイルドグルメです」って。何のことやらよくわからないけど(笑)、「カッコよく、最後はちょっとキメてくれ」みたいなね、そういう感じだったので。

  川上 私、最初の頃は、『かっこいいスキヤキ』を感じたんです。あれもハードボイルドグルメの一種、ですよね?(笑)

 谷口 だから『事件屋稼業』なんかを意識して、一応最後はカッコよく立っている姿とかで、最初はまとめてみたんです。〉同上 p197~198

 〈久住 普通の原作の場合、僕は絵コンテまで描いてるんだけど、谷口さんとの場合は、写真と文章だったので、ある意味作業はいつもより楽だったんです。ちょっとシナリオみたいな感じ。

  川上 写真は1回で何枚ぐらい?

  久住 それは、あればあるほどいいというので、200枚とか、300枚とか。もっとか。

  谷口 ただ、絵にできるものを選ぶのがやっぱり大変。お店を探す順序みたいなものがあるし。

   [作画で大変だったのは「第7話 大阪府大阪市北区中津のたこ焼き」の屋台の中だとして]

  谷口 これね、場所が狭いでしょう。だから、セリフの展開が大変だったんですね。キャラクターがしゃべる順序と位置関係、その構図の決め方、セリフの持っていき方が。[参考図版 同上p72]

  川上 これ、ものすごく熱心に見ました。この人とこの人が連れかな? とかって。〉同上 p199

 〈久住 でも、僕が原作で意外だったのは、最初、一生懸命文章で表わさなきゃと思って書いたのを谷口さんに見せたら、これはとても8ページに入らない、もっともっと減らしてほしいと言われて。1ページがだいたい200字とかそのぐらいですよ、確か。そんなに短くていいのかなと思って、全然楽なのね(笑)。ところが驚いたのは、俺の書いた、一言一句が、ちゃんと全部マンガになっていて・・・・。
  川上 語尾も変えずに?

  久住 語尾も変えないどころか、たとえば「焼き肉の鉄板から見上げた井の頭五郎の顔がナントカだ」って書くと、鉄板から視線がこう見上がってるの、ちゃんと。すごいの、本当に。何気なく書いたようなものが、克明な絵になっているのに驚きましたね。[参考図版 同上p79]

  川上 でも、それってすごく嬉しいことじゃないですか。

  久住 嬉しいですね。〉同上 p199~200

 〈久住 でね、実写でやるなら主演は誰がいいかってのを、ネットで意見出し合って遊んでたの。そしたら、ある人がニコラス・ケイジって言ったんだよ(笑)。[略]でも俺、ナイスアイデア! って思ったの。しゃべりは全部英語にして、字幕は原作と一言一句変えないという。〉同上 p204~205

萩尾望都『半神』p16

 萩尾望都 1949(昭和24)年福岡県大牟田市生。69年デビュー。『ポーの一族』『トーマの心臓』などで男性ファンもつかみ、いわゆる「24年組」として「少女マンガ」の新世代として高い評価をうる。『半神』は「プチフラワー」82年1月号掲載。

キイワード 絵と文字の関係と語り手人物及び読者の視点 自分と自分を見る自分 マンガという表現形式

 〈ストーリーはそのユージー[姉]の視点から語られていくのだが、ユージーの視点から、といっても、それは文に関してである。絵はそうではない。絵が描かれる視点は、あくまでもユージーとユーシーの外部の視点だ。二人は、あくまでも一つの世界の中にいる二人の人間として、対等に描かれており、一方は視点(つまり《私》)として、他方はその視点から見られた世界の中にいる人物として、というふうにには描かれていない。つまり、絵はいわば神の視点から世界の客観的な事実を描き、文はその中の一人の人物の視点から内面的な真実を描き出すのである。/これはマンガという表現形式の一つの特徴であり、『半神』という作品は、マンガのこの特徴を生かして、小説などではけっして表現できない世界をみごとに描きだしているという点で、芸術表現という点から見ても画期的な傑作とみなされるべきものなのである。〉永井均『漫画は哲学する』講談社 2000年 p46~47 ※主観と客観の視点を同時に持つ表現形式はマンガだけだろうか?

 〈これは、もちろん誰でも自意識の底に漂わせている「もう一人の自分」との葛藤を説話化したものだし、だからこそ僕らは深い衝撃を受ける。が、もっと驚くべきことは、この短編が軽いユーモア挿話として描かれていることだ。〉夏目房之介『マンガに人生を学んで何が悪い?』ランダムハウス講談社 2006年 p120

 〈『半神』について永井均が指摘した二つの視点、神の目と、主観の内語は、じつをいえば人間の意識が必然的にもつ二重性からやってきている。つまりアイデンティティの問題、「もう一人の自分」=自分の内なる他者性の問題なのである。そして、ここで指摘された絵の視点と言葉の視点(人称)のズレは、見事にその主題を方法化している。〉同上 p124

とり・みき『Mighty TOPIO』p8

 とり・みき 1958(昭和33)年熊本県人吉市生。79年デビュー。少年誌連載『クルクルくりん』、サイレントマンガ『遠くへいきたい』、エッセイマンガ『愛のさかあがり』、ギャグ、パロディ、SF、伝奇物など多様な作風をもつ。『Mighty TOPIO』は、東日本大震災復興支援チャリティーコミック『僕らの漫画』(「僕らの漫画」制作委員会 小学館 2012年)に所収された。同シリーズは27名のマンガ家の連作で、2011年から電子書籍として発売され、さらに同人誌版及び小学館単行本として刊行された。

キイワード パロディSFの前提知識と話の省略 飛躍するコマの間を読む フィクションと「現実」

 〈震災、そして原発事故に関しては、何かわかったようなことをいう気にはまだなりません。正直な話わからないからです。悲観的になりすぎないように気をつけてはいますが、さりとてそう楽観的に考えているわけでもない。じゃあどうするかといって自分にはマンガを描くことしかできません。震災を描こうが描くまいが。そして(このマンガも含め)マンガは良くも悪くもフィクションです。現実ではない。この時期のフィクションの意味を考え、描いていこうと思います。〉とり・みき「Comment」 同上p441

〈クーパーは「9-11」の体験によってこれまで「自己表現」としておこなってきた行為が政治的なプロパガンダでもあり得ることに気付かされ、自分の「表現」に幻滅してしまったようにも見える。[略]絵を描くことは「自分の心の中をひとに伝えるためのもの」だったはずなのに、と嘆いてしまうクーパーは、あまりにも無防備に、彼がじつは自身の表現の政治性に無自覚だったことをさらけ出してしまっている。〉小田切博『戦争はいかに「マンガ」を変えるか アメリカンコミックスの変貌』NTT出版 2007年 p110~111

 〈私が「私たちが本当に考えるべきこと」だと思っているのは、なぜ彼ら[米国のコミック作家たち]が自国に対する自爆テロ事件に直面したときに、まるでそれをしなければもう一度創作に向かえないかのように「空想の否定」や「表現への幻滅」を一斉に口に出さねばならなかったのか? という点である。〉同上 p135

Comment(0)