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夏目房之介の「で?」

関純二『担当の夜』文芸春秋

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Photo 昨年暮れに出て、だいぶ以前に買い、でも、何となく読んでいなかった本。元マンガ編集者が小説として書いたマンガ編集者の話である。第一話「担当の夜」は、ややマイナーながら人気のある天才肌の漫画家との壮絶なやりとり。二話「担当の朝」は、あきらかにジョージ秋山を彷彿する、韜晦の達人である大物漫画家を師匠とするマンガ編集者の苦悶。三話「最後の担当」は、「無頼」を気取るしょうもない新人に入れ込み、挫折する編集者の切なさ。四話「俺酒」は亡くなった先輩編集者たちへのレクイエムで、ひたすら酒を飲んでうだをあげる話。うち、一〜二話は「オール読物」掲載。三〜四話は書き下ろし。あとがき的なページに、表紙も描いているすぎむらしんいちがマンガを載せている。小説内では、主人公の編集者は酒を飲んで記憶がなくなると裸になるらしいが、すぎむらのマンガでは事実そういう著者の写真が見つかったと描いている。う〜ん、たしかに昔の編集者にはよくいたタイプかもしれない。

Photo_2小説内の状況から、おそらく、あのマンガ青年誌で、あの人が少なくともモデルの一人、という推測ができそうだ。「この作品はフィクションであり・・・」と末尾に書かれており、たしかにいくつかのエピソードを混ぜ合わせたりはしているかもしれないが、漫画家や編集者への友情というか戦友的感情、共有した熱のようなものは、「実在」した彼らへのものだろうと思わせる。読者のレビューでは、安達哲、華倫変などが想定されている。

http://book.akahoshitakuya.com/b/4163828605

小説としてはどうか、というと、まず文章はけしてうまいとはいいがたい。変なところでブツブツと言葉を切り(あるいはネーム的なのか?)、句読点も妙なところがあり、けれどもひたすら饒舌に熱っぽく語る。そして、困ったことに、面白いのである。いやー、ややうざったいほど熱いけど、妙に面白くて読んでしまうマンガって、あるでしょ? あれと同じ感覚。一気に読めてしまう。僕は半日で読んだ。

ところで、最後の「俺酒」。読者レビューでは、これが不評。「面白くない」「いらない」と書かれている。これが不評ということは、この本の不幸で、最後の作品が納得いかないと本全体のイメージは著しく落ちる。
しかし、僕にはこの小説こそが、書かれなければならないと著者に思われたものだった気がしてならない。ふつうの読者は漫画家には興味があるが、編集者の共同体には興味がないのかもしれない。あるいは、停年後アガってしまった年齢のおっさんたちへのレクイエムなんか感情移入できないのかもしれない。たしかに、この最後の「小説」は生モノの感じがする。あるいは年齢のせいか。「面白い」かといえば、微妙だが、僕はもう少し寄り添った感じで読まされた。それは、こういう共同性ってありうるな、と感じるからだろう。
先輩編集者に聞き書きで主人公が回想録を書くというと、その先輩はいう。
「いや、どうせ昔はいい時代でしたね、って言われるだけだから。それにさあ、ほんとに忘れちゃったし、ハハハ」
その後の文章は、こうだ。
「昭和のまともな漫画編集者は過去も未来も考えてこなかった。今の今しか考えなかった。漫画週刊誌はそれ以外を考える余裕習慣を与えなかった。昔の手柄話など語らない。書かない。残さない。俺は目撃者として、そしてまともじゃないからバイアスがかかってようが彼らの業績ではなく面影素描書くことで、おおげさに言うのなら世界と折り合いをつけてみたい。世界と接点を持ちたい。」
事実、そうだったろうなと思わせる。出版及びマンガ市場がピークだった90年代半ば前後を経験した編集者らしい言葉も作品中に散見され、市場縮小の後退戦を戦ったしんどさも伝わってくる。このレクイエムは、それを背負ったための暗さを持ってもいる気がする。

マンガ編集者自身の描くマンガ編集者モノの小説は多くはないが、なかなか読ませてくれたというのが読後感。でも、表紙のイメージとはまったく違う、どろどろと自意識の折れ畳みを辿るような感じだった。面白いんだけどね、たしかに。

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