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夏目房之介の「で?」

藤沢周平『一茶』

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「 痩蛙まけるな一茶是にあり
  やれ打つな蠅が手を摺り足をする
 といった句で知られる、善良な眼をもち、小動物にもやさしい心配りを忘れない、多少こっけいな句を作る俳諧師の姿」(藤田昌司「解説」 藤沢周平『一茶』文春文庫 p888)

 藤沢にとっても、かつては一茶のイメージはこうであったという。僕もまったく同じだった。この小説を読む前まで、ということだが。
 藤沢が資料を読んで知った一茶とは「一茶は義弟との遺産争いにしのぎをけずり、悪どいと思われるような手段まで使って、ついに財産をきっちり半分とりあげた人物だった。また五十を過ぎてもらった若妻と、荒淫ともいえる夜夜をすごす老人であり、句の中に悪態と自嘲を交互に吐き出さずにいられない、拗ね者の俳人だった」(藤沢周平 エッセイ「一茶という人」 同上より)という。
 この小説では、まさにそうした俗っぽく、欲にまみれ、傲慢で卑屈で、貧にひしゃげた男の人生が描かれる。読者は、漠然ともっていた一茶のイメージを次々に壊されて、のもってゆくしかない。江戸での俳諧師の道に挫折し、故郷に帰ってからは、義母と義弟が盛り上げてきた田地、家の半分を父の遺言を盾にとりあげ、ようやく落ち着くが、さらに嫁を亡くし、二度目の嫁を離縁し、ついに三人目の嫁のもとで65歳で逝く。凡俗の徒でありながら、それを貫くような男が、生活のために飛び込んだ世界であったにもかかわらず、ついに2万もの句を吐き出さざるをえなかったことによって詩人であった不思議、しかも優れた詩人ですらあったことの奇怪さを描いている。そして、余裕のある階級の趣味とされた当時の俳諧が、芭蕉のもたらした高尚から、次第に変化し、趣味階級にシラミのように巣食う食い詰めた俳諧師であった一茶によって変貌する時代の様が描かれる。まことに、表現とはかくのごとく人の欲望や美や風狂を波のように変容させながら時代を作ってゆくものなのだろう。
一茶が、当時の百姓や雇い人としては怠け者で辛抱のきかない人物であり、性格的には遊侠の徒に近かったろうことは読んでいて感じられる。それは大都会江戸で可能だったことだろうが、しかし同時に、挫折すれば悲惨な行き倒れになるしかない過酷な商売でもあった。作中の一茶は、しばしば孤独と鬱屈を味わって寒さの中で膝を抱える。そして、たった一人で老いて死ぬことへの不安と恐怖に苛まれる。

現在マンガを描く人の中にも、同じ思いはありうるだろうと思わざるをえなかった。あるいは僕でも、似たような境涯はありうるだろう。読んでいながら、そくそくと身にしみるところがある。一茶を句の道に誘うことになる元御家人の男の、山で行き倒れ霜に覆われて発見された死が描かれるが、なぜか他人事ならず読んでしまった。
藤沢周平の一茶へのまなざしは、ときにつめたく、ときにやさしく、鋭い批評をなしている。読者は、そこに共鳴してしまうし、一茶という凡人の生涯を黙然と見守るしかない切なさを味わう。そして、自分も同じように膝を抱える気分になる。どこかで生きること死ぬことの覚悟を迫られる気がしながら。

いい小説だと思う。

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