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ライフワークとしての学びを考えます。

良いことをして満足したいという願望をかなえるビジネスは儲かる

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「"チャリティー"とつけると儲かるので一緒にやりませんか?」

あるチャリティー合同演奏会のお誘いを受けたことがありました。

どうしても冒頭のこの言葉にひっかかってしまったこともありますが、結局、時間が合わなかった理由もあり、私は参加しませんでした。

その演奏会は、難病のある演奏家が出演し、その病気の研究機関に寄付するという主旨です。
お考えや志は尊いと思いますし、クラシックの演奏会は一般的になかなか人が入りませんので、チャリティーは普段演奏会にいらっしゃらない皆さんにも音楽を聞いていただく良いきっかけになります。
また、難病とは言いましても、努力された立派なプロの方が演奏をなさるので、きっと良い演奏会になるのではないかと思いました。

プロとして演奏会をするということは、当然、利益も出さなくてはなりません。
だから、きれいごとだけではなく、知恵をしぼって利益が出るように企画することは悪いことではないと思います。

私自身は、「演奏会にチャリティーとつけると儲かる」という考えには違和感を覚えますし、自分は出来るものではありません。しかし、その方々の立場を思うと全面的に反対する気持ちにはなれません。心の底からの良心でチャリティーを行っている方々もいらっしゃいますので、出来る限り支援させていただきたいとも思っています。


それが過度にエスカレートしてしまったのが、社会問題にまで発展した「日本のベートーヴェン」でした。

橘玲さんの本「バカが多いのには理由がある」(集英社)の中に、最近問題になった「日本のベートーヴェン」について書いてありましたので、下記に引用いたします。

    ・・・・(以下引用)・・・・

人並み以上の野心だけはある若者が社会の最底辺から抜け出し、スポットライトを浴びるために思いついたのは差別を利用することでした。彼にとって幸運(もしくもは不運)だったのは、才能あるゴーストライターと出会ったことでしょう。無名の現代音楽の作曲家がアルバイト感覚でつくった大衆受けするクラシックは”障害”と”被爆者”という魔法の言葉によって「奇跡の大シンフォニー」へと変貌したのです。
(中略)
凡庸な楽曲を美談で飾り立てると名曲に変わるのもこれと同じです。消費社会では、モノではなく物語が消費されます。ほとんどの人はクラシック音楽に興味があるわけではなく、手っ取り早く感動を手に入れたいのです。
「日本のベートーヴェン」は”障害”や”被爆者”でマスコミを踊らせれば、音楽的な才能がなくても大きな成功を手に入れられることを実証しました。その意味で彼は”自分マーケティング”の天才だったのです。

    ・・・・(以上引用)

アカデミックな音楽興業の経営の難しさ。
それに加えて、一般的なクラシックへの関心の薄さ、興業的な観点での採算がとりにくさという二重の逆境を、敢えて、逆手にとって、生きる道にしていったしたたかさ。
ハンディある人間が起業するのと同様に、小説になりそうなほどの物語性を感じました。

ただ、この事件の大きな落とし穴は、虚言からくる嘘が嘘をよんで、取り返しがつかなくなってしまったところにあると思えます。

私も、仕事で編曲や作曲を作曲家に依頼することがあります。
ある程度の知識はあるので、簡単なものであれば自分で作れないこともないのですが、やはりその道のプロにお願いしたほうが、自分が時間をかけるより、確実に素晴らしいものができるからです。
ただし、その場合、作曲者のお名前を記載させていただくことにしています。また著作権についても事前に合意します。

今回の問題は、ゴーストライターをしてくださった方もプロなので、仕事を依頼するときに何かしらのしっかりした契約をすると、ややこしいことにはならずにすんだかもしれません。
ただ、「アルバイト感覚で気軽に受けていた」ということですから、ここまで事が大きくなるとは予測できなかったのだろうと想像します。

ハンディをバネにした目の付け所は良かったのですが、正攻法でないと、どこかで落とし穴が待っているということなのでしょう。


この「バカが多いのには理由がある」という橘玲さんの本、「日本のベートーヴェン」をきっかけに、最終章「地獄への道は善意によって敷き詰められている」まで、「善とは何か」という問題に怒濤のごとく深く切り込んで行き、圧倒されます。

最後、「アフリカではなぜ手足が切断されるのか」で、人間の心の深みに鋭い刃をつきつけられます。

    ・・・・(以下引用)・・・・

NGOが行う国際人道支援とは、紛争や虐殺などを「商材」にしてドナーから寄付を募り、”よいことをして満足したい”という願望をかなえるビジネスだと気づきます。
(中略)
国際人道援助におけるイノベーションが起こりました。敵を殺すのではなく、四肢を切断して生かしておけば、そのほうがずっとインパクトのある「絵」になるのです。
死体には見向きもしなくなったすれっからしの報道カメラマンも、手足のない子どもたちが泣き叫び、地面を這いずり回る場面には殺到します。欧米のメディアで大々的に報道されれば、ドナーの寄付金は子どもたちの四肢を切断した者たちの懐におちるのです。
(中略)
罪もないひとたちの手足を無惨に切断するのは、NGOからカネをかすめ取ろうと考える者にとってはきわめて「経済合理的」な行動でした。

    ・・・・(以上引用)・・・・

善意とは、坂を転がり落ちるように、加速がついたら止まらなくなってしまうもののような気がします。

だからこそ、そこにつけこむビジネスがあるのだということです。

自分も「これは環境に良い製品だから」と、高いお金を払い満足しているところがあります。小さな事から始まっても、「良い事をしている」ことで救われない自分を救おうとする自分を見つめられなければ、それは加速がついていくものなのです。今回のことは、自分の鏡ではないかと思いました。「良いことをして喜んでいる」、そういう面がないか?と、あらためて考えさせられました。

一方、このような問題が明るみに出る事で、本当に必要な人道支援活動やチャリティーがしにくくなってしまうのではないかということにも危機感を覚えています。より良い社会になっていくことを願わずにはいられません。

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