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「自分の著作権を弱めるので、世の中すべての著作権も弱めるべきだ」は正当な主張か?

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著作権関係の話題については、しばらく前に色々と考察していましたが、最近は特に新しい話題もないですし、ときどき個人ブログに書く程度でした。そんなところに、栗原さんから興味深いテーマが出てきましたので、久しぶりにこちらに書いてみます。ここでは、「著作権を弱めるべきと主張する人はまず自分の著作権を弱めるべきだ」という主張は正当でない、と指摘されています(これを合意する機会がない「囚人のジレンマ」に例えようとするところで、すでに問題を見誤っている気がしますが、それは脇に置いておきましょう)。

少し話はとびますが、最近話題になっている定額給付金について「政策には反対するが、給付金は辞退しない」という姿勢はおかしい、というエントリを見かけました。つまり「給付金に反対する人は、給付金を受け取るべきではない」というわけですが、私はこれは正当ではないと思います。給付金の財源は結局税金ですが、今回給付金を受け取らなかったからと言って、将来その分が減税されるというわけではありません(もしそうなら、私を含めて受け取らないという人は出てくるでしょう)。「囚人のジレンマ」どころか、ただ一方的に損をするだけです。

なるほど、そういうならば「著作権を弱めるべきと主張する人はまず自分の著作権を弱めるべきという主張が不当であると認めるか」といわれると、それも合意できません。この表現そのものが私の主張とずれているのですが、そういう私はダブルスタンダードなのでしょうか。いいえ、そうではありません。ここにあるのは、たんに「著作物の多様性」に対する無理解です。

そもそも、著作物とは、一定の労力によって常に一定の対価が得られるというものではありません。書籍、音楽、映像など、さまざまな形態があり、それらの中にも多様な目的があります。たとえば、昨日の新聞を店頭に置いたところで今日の新聞と同じ値段で売れるわけではありません。その内容までもが一切無価値なものになるのではありませんが、たいていは水曜日の朝に回収してもらうのが関の山でしょう。一方、ロングセラー小説のように長期にわたって商品価値を持つものもあります。同じ「言語の著作物」であっても、このような違いがあります。映画ならば、予告編は無料で(あるいは広告費を払って)見てもらうようなものだとしても、本編を無料で流通させることはありません。深夜枠で放送されるアニメなどは、制作会社が枠を買い取って宣伝のために放送し、その後のメディア販売で収益を上げるというものもあります。

このように多様な形態・目的を持つ著作物ですが、著作権法では、そのような多様性に応じて保護期間が設けられているわけではありません(映画のみ公表後70年)。また、現在のところ、著作権(著作財産権)の保護期間は切れてしまえばおしまいで、希望しても保護期間を延長することはできません。一方、Creative Commons のように自らの意思であれば、保護を求めないという宣言はできますから、著作者の意思に反してまで利用が束縛されるということはありません。私自身、過去に執筆した書籍・記事について無許諾での再利用を宣言したことはありますが、(多少のニーズもあったようですが)商品価値はゼロに等しいですし、これを持って他の著作者に無許諾使用を強制しようとは思いません。

実のところ、私は「著作権を弱めるべきと主張する人はまず自分の著作権を弱めるべきだ」と言っているのではありません。私が言っているのは「P2P による著作物の流通は宣伝効果がある(だからそうすべきだ)と言うのであれば、自らの著作物を流通させてその宣伝効果を活用するという行動に出るのでなければ二枚舌である」とか「流通しなくなった著作物についてまで著作権で保護する正当な理由がないと言うのであれば、流通しなくなった自らの著作物を保護する正当な理由はないのだから、自らそうしないのであれば二枚舌である」ということであって、要するに発言者の言動一致性を確認しているにすぎません。たとえ、こうした人々がそうした行為に出たとしても、それを理由に「著作権を弱めることは正しい」と宗旨替えすることはありません。R・ストールマンが「すべてのソフトウェアのソースコードはオープンにすべきだ」と主張し、自らその通りに行動していることで「ストールマンは言動の一致する人物である」と評価しても、それとストールマンの主張を受け入れることとは別です。

ありていに言って、利用者が自由かつ安価(または無料)で著作物を利用したいと思うのは当然のことで、それはもう「聞かなくてもわかる話」ではあります。著作者の中にも保護延長に反対する人はいるのですが、商品価値が10年しかなさそうな著作物しか創作しない人に「保護期間なんて20年で十分」と言われたとしても、「あなたとは違うんです」と言われてしまうだけだと思います。現実には、そのような“立場のわかりやすい主張”を聞くことは多いのですが、その人たちが自らの生活の糧までを差し出そうとするわけではありません。自らの“損益分岐点”を基準にして、「世の中も自分に合わせるべきだ」と言ったとしても、それぞれに「事情が違う」わけです。あるいは「お金を払っても読みたい」ものでもないブログの執筆者が何千万人いたとしても、彼らはそれで生活しているわけでもないですから、商業著作物に対して“著作者としての説得力”はないでしょう。

私自身は、以前書いた通り、保護期間を長くして孤児作品のおそれを増すより、現状以降の保護延長については登録制度を導入する方がよいと思っています。しかし、このような著作物の多様性を理解しない意見は、権利者に受け入れられないどころか、「そうであれば、著作物を自由に利用したい人は、自由に利用できる著作物だけを利用してくれればよいのだから、商業著作物の保護期間延長を妨げる理由にならない」という根拠にされてしまうのではないでしょうか。

囚人Aと囚人Bが話し合えるなら、互いに黙秘するという合意を実現できるでしょう。著作権において“囚人たち”が話し合いを禁じられていないのに合意できないのは、“自分の損益分岐点”だけを基準に言い合っているからではないでしょうか。

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