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 セールスジャパンの経営を始め、様々な事業活動に携わるマイク丹治が、日々仕事を通じて感じていることをつづります。国際舞台での活動も多いので、日本の政治・社会・産業の課題などについて、グローバルな視点から、コメントしていきたいと考えています。

行政の見直しをどう進めるか?

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昨日の新聞記事で、林業公社の廃止による資産の時価評価が債務総額と比してほとんどない、というものがあった。

考えてみれば、2000年代の初めころ、とある県の外郭団体の見直しに関わった時、林業公社があってその負債などが大きな問題であることが指摘された。問題は、森林を守ることの難しさ、更に元々の地権者が長い年月を経て所在が分からなくなり、処理が難しいということであった。

それから15年を超える年月が流れ、このような記事が出ると、ある意味で廃止が進められていることは良いとしても、そもそもの政策の意味はどうであったのか、政策が作られたときからの管理、更にその現実を踏まえた見直しが適時適切に行われてきたのか、という疑問に到達する。

行政は、無謬性を原則としており、一旦作られた政策は、何か根本的な問題が発生しない限り継承される。だが、そもそも政策目的をきちんとモニタリングする仕組みはなく、行政は何をしたか、つまりインプットが当初の方針に従って進められている以上、それが結果としてどのような効果を生んだか、当初の目的に沿った成果を上げたか、を図る発想に乏しい。従って、上記の外郭団体の見直しの際も、個々の外郭団体の課題もさることながら、そもそもの目的に沿った成果を図る仕組み作り、更に一定の周期で見直す仕組みが必要との答申を出したが、これが守られているというようには思えない。

それにも関わらず、我が国では何でも行政に依存し、国家予算額の伸びはある程度抑えられているとは言え、これを本格的に縮小するという議論はなされない。もちろん行政に携わる方々は一生懸命やっているのだと思うが、今一度国の形として、本当にここまで官に依存する仕組みが相応しいのか、考えてみる必要はないのだろうか?

平等性が求められる行政が、幅広く国民へのサービスを担う仕組みは、結果として非効率で不必要なサービスの提供につながる恐れはないのだろうか?

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