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 セールスジャパンの経営を始め、様々な事業活動に携わるマイク丹治が、日々仕事を通じて感じていることをつづります。国際舞台での活動も多いので、日本の政治・社会・産業の課題などについて、グローバルな視点から、コメントしていきたいと考えています。

これからの日本をどうして行くか?

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私事だが、先週母親を亡くした。2年半前に転んで骨を折り、それまでも徐々にあまり動けなくはなっていたのだが、骨折以降はさらに積極性も失われ、ショートステイ、サービス付き高齢者住宅、そして特別養護老人ホームと渡り歩き、誤嚥が原因で2週間の寝たきりの後、静かに息を引き取った。

ただ、骨折以降は、徐々に口数も減ったし、自ら動けるわけでもないので、多分亡き母親もこの2年半はあまり楽しくなかったと思うし、一方でお世話になった施設の皆さんも、薄給で大変な介護をしてくださったのだと思う。つまり、このような期間は本人にとっても、家族にとっても、更に支える人々にとっても、決して幸せな時とは言えないと感じる。そして、そのためのコストが国家の財政を揺るがすような事態になっているとすれば、何かおかしいと感じるのは私だけではないだろう。

いくつか大事なことがあると思う。まず、個人の決定をより促すことは出来ないのか、ということ。もちろん完治する可能性がある病気であれば、何とか治療をと思うのは当然だが、一方で動くことも出来ず、話すことも出来ず、食事すら直接は食べられない、という状態になった場合にどうするか、もっと本人が決めることが出来るように出来ないか、ということだ。家族は当然最大限のことをしようとするだろうし、医療機関なども当然同じ。だが、一番大事なのは本人の気持ちだろう。正直言って、私の母親のケースは、本人も意識がなかったので、何を考えていたかも分からないが、とてもかわいそうな気がした。

それから、少しでもそのような事態になる前に準備する期間がないか?つまり、歩行が難しい、或いは認知が進む、という前に、ある程度予想が出来れば、それに対する準備なども可能になるのではないか?母親は、歩行が難しくなった後も、車いすを動かすことが出来なかった。だからより歩こうとして更に転ぶ、ということで悪循環になったとも言える。車いすの練習をさせておけばよかったと感じた。

財政の制約の中で、益々在宅型が推奨される中、これに対応する介護職員などの従事者には数の限界があり、更に処遇の低さもある。海外からも介護福祉士についてはビザを与えることにはなったが、文化の違いもある中でどこまで機能するのか?このまま動けない高齢者、認知を伴う高齢者がどんどん増加した場合、そもそも対応することが出来るのか、という点も含めて、本気で考えないと取り返しのつかないことになるような気がしている。

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