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 セールスジャパンの経営を始め、様々な事業活動に携わるマイク丹治が、日々仕事を通じて感じていることをつづります。国際舞台での活動も多いので、日本の政治・社会・産業の課題などについて、グローバルな視点から、コメントしていきたいと考えています。

立法手続きの適正化を!

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共謀罪の法案審議は言語道断、そもそも人権や立憲主義に違背している、つまり現政権が、政府或いは国家優越的な考え方に立って、結果として独裁政治を目指しているとしか思えないことは再三に亘って指摘しているが、ここに来て先日民法の改正案が成立した。

全く不勉強の、大本営発表に従った報道しかできないマスコミは、社会の変化に対応しつつ、判例などで定着したルールを条文に明記し、国民に分かりやすい法律にするものと、目的を説明する。

その中で、例えば約款に関する規定について、消費者の同意する意思が明確に示された場合に、約款が有効であるなどの規定が加わったと指摘する。だが、このような考え方はこれまでの法解釈でも実際に適用されてきており、そのようなことは通常のハウツー本に記載されており、既に千条を超える難解な民法の一部を修正したところで、誰がそれを見るのか、と思わざるを得ない。

一方で、債権の消滅時効の統一化が制定された。これなどは、逆に消費者にとっては不利になる条項だ。もちろん特定の債権、例えば飲食費だと何故早く消滅するのか、という疑問は理解できるが、現行民法の規定にはそれなりに理由があったのだろうと思うし、それはそれぞれの債権に関わる行為などの人間の生活における意味などを勘案したものだったのではと考えることも出来る。これを単なる整合性だけの議論で簡単に改正してよいのか?

賃貸借の敷金も、新たな規定は判例の明文化だけのもので、報道が如何にも重要な点であるかのごとき説明をしているのには、あまりの無知さに苦笑せざるを得ない。米国において、大統領のロシアスキャンダルを負う米国の報道と比較した場合、我が国のマスコミにあまりのレベルに低さにあきれるばかりだ。

今回の民法改正は2006年10月から改正作業が始まり、法務省としての原案である民法の改正に関する要綱仮案が成立したのが2014年7月であった。だが、2015年3月に国会にこの債権法改正の法案が提出されたときの理由が、時効期間の統一化、法定利率変動規定の新設、保証債務の規定の整備、約款に関する規定に新設であったところ、当初の原案では、消費者契約を民法に取り込む、債務不履行による損害賠償の無過失責任化、ドイツ法型からフランス法型で、条文数の大幅増、などが想定されていた。つまり大改正が一時的には予定されていたのだ

ただ、このような大改正は、研究者の間でも様々な批判を浴び、それでも推進するために2009年の法制審議会の民法部会の立ち上げに際しメンバーから反対派を除き、且つ民間の参加者を圧倒的少数にするように操作し、更には2011年のパブリックコメントの内容も部会への報告を遅らせ、これを反映しないで進めるなど、民法という国民生活の根本にかかわる法律の改正作業において、様々な暴挙が繰り返されたのだ

いずれにしても大改正のはずが、その想定した内容からは大きく後退し、結局先述のいくつかの当初の大原則は一つも実現しないことになるわけだが、一番重要なことは、この改正が法務省の官僚の主導で始まっていることである。先にも述べたように、民法は国民生活の根幹にかかわる法律だから、やはり明確な改正を要する事象があり、これについて場合によっては国会の議論も踏まえて付帯決議で改正の議論がスタートするなどというのが適切ではないか?

私が関わった所謂公益法人制度改革も、中間法人制度の制定の際の国会の付帯決議がきっかけだ。ところが、この債権法改正は法務省の発案であり、且つ当初の方向性が法務省関係者の発案による大改正で、賛同する研究者も少なく、これを推し進めるために様々な策を弄し、結果として主要な項目が雲散霧消し、それでも残った部分が今回成立したということになる。これって、本当に長い時間と国民の税金でなり立っている組織のコストを大量に使って、実現すべきものだったのか?

以前も述べたが、国会のみならず行政も含めて、法律の制定過程が、極めて非民主的且つ独断専行型になっているように感じるのは、私だけだろうか?共謀罪しかり、更には少し旧聞に属する会社法制定もそうであったと理解している。現在行われている例のIR法案の議論も、確かに利権が関わる可能性があるからというのは理解できるが、官僚や政府委員へのアクセスは極めて制限的になる中で、相当独善的な考え方が出てきているように感じている。

加計事件では、文科省と政権の暗闘が白日に晒されつつあるが、そもそも民主国家で、このようにあからさまに私益と公益のせめぎ合いと思しき事件が、政府と本来政府の一部をなす官僚組織との間で闘わされるのは、さすがに国際社会に対して恥ずかしい気はする。だが、どちらが正しいか分からないが、外形的には文科省の側の話に信ぴょう性があり、これが大学への不正人事での詰め腹に対する報復だとしても、要は同罪ということにしかならない。

共謀罪に対する国連の調査官に対し、説明機会が与えられなかったと不満を漏らす官房長官の発言に、私はやはりと思った。「説明すれば理解される」、これは実質的に法治国家ではない我が国だからこその発想なのだ。法律は条文を読んで、それが人権にどう関わるかを判断する、というのが調査官の趣旨なのだろう。我が国は、法律に書いてあっても、解釈は官僚が決める、そして更に言えば、多分これ以降は官僚のみならず、政府関係者が深く運用に関わるということなのだろう。これがこの法律の最大の危険性だと考える。

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