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 セールスジャパンの経営を始め、様々な事業活動に携わるマイク丹治が、日々仕事を通じて感じていることをつづります。国際舞台での活動も多いので、日本の政治・社会・産業の課題などについて、グローバルな視点から、コメントしていきたいと考えています。

マスコミはもっと謙虚に!

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この週末は、小学校の同窓会に行ってきた。私は、育ちが関西で、小学校も大阪府下の小学校を卒業している。ただ、中学以降は地元には進学せず、更に大学以降は東京に出てきてしまったので、同窓生とは疎遠であり、10年くらい前に同窓生で同じく首都圏に住んでいる友人が探し当ててくれるまで没交渉だった。

中学・高校の同窓会もあるし、大学のクラス会もあるが、不思議なことに小学校が一番皆仲が良く、集まりも良い。大阪の小学校だが、東京にいる同窓生もかなりいるので、東京でも少人数ではかなりの頻度で集まる。やはり、年齢を重ねる毎に、例えばクラブ活動だとか、文科系・理科系だとか、様々な人のグループ化が進み、人間関係が複雑になるからだろうか?

小学校では、もちろん成績のよい子、運動のできる子、など様々な特性があったのは事実だが、あまり分け隔てなく皆が一緒だったような気がする。そして、卒業して何十年も経って、立派な職位にある人だって、あの当時は鼻たれ小僧だったわけで、それを皆が知っているからなのか、とも感じる次第だ。

ところで、このところ朝日新聞の報道が批判の対象になっている。従軍慰安婦報道や東電の吉田調書の取り扱いが問題の発端だ。個々の報道の中味は、詳しくは知らないし、コメントする立場にもないが、このような騒動を見ながら思うのは、ときどき感じるマスコミの勘違いだ。

まず、一つ目の勘違いは、マスコミ自身が世の中を動かすことが出来るし、それを場合によってはすべきだというもの。もちろんウォーターゲート事件のようにメディアが世の中を動かしたことがあるのは事実だし、ペンの力は強いと思う。だが、それはマスコミの意思によって動かすのではなく、あくまで事実の報道を踏まえた民衆や政府などの現実の行動によるものだ。

この勘違いの典型は、民主党政権が出来る前後のマスコミの報道だと私は思う。確かに、次々と総裁が代わりしかも統治能力がない状態が続いていた自民党にそのまま政権を継続させて良かったかどうかは疑問だが、殊更に民主党政権を期待するかのような方向性で報道がされていたと私は感じた。もちろん最終的には、国民の意思で民主党政権が誕生したわけだが、あまりにドラスティックなこの変化がどれだけわが国にダメージを与えたか、と思わずにはいられない。

もちろんマスコミとて自らの意見を持つ自由はあるし、それは堂々と例えば署名記事などで記載すれば良い。だが、報道の本来の役割は、真実を伝えること、そしてそれを踏まえて国民が判断する材料を提供することだ。だとすれば、やはりきちんとした検証なしに記事を掲載することは厳に慎むべきだと考える。

もう一つの勘違いは、マスコミは自分たちが国民を代表している、或いは国民をよく理解していると思っていることだ。かなり前だが、オウム真理教事件に関して、あまりにオウムの一事についての報道が多すぎて、世の中で何が起こっているかという意味での正確な報道から乖離しているのではないかと批判したことがある。かなり著名なテレビ人相手だったが、即座に反応が返ってきて、「我々が一番国民を理解しているのだから、その国民が望む報道をするのがどこが悪い?」と言われた時には驚いた。

確かに、多くの国民がテレビなどを見ているし、新聞の購読率も高いのがわが国ではあるが、だからと言ってマスコミが一番国民を理解しているという証左にはなり得まい。ましてや、報道は視聴者が望む情報を流すのではなく、事実を伝えるものだと思う。どうもこのあたりが不明確になり、報道のバラエティ化が益々進んでいるように感じる。マスコミは、国民の代表者ではなく、国民が事実を認識して、主権を行使するための情報を提供する一機関にすぎない。

もちろん民主主義社会においてその役割は大きく、報道の自由などは尊重されるべきだし、マスコミはある意味で国民の目としての役割を果たしていると言えるだろう。だが、それ以上のものではないと思うのだ。

メディアは重要だ。だからこそ、是非謙虚に事実を伝える機関としての役割を堂々と果たして欲しい。そして、更に付け加えれば、先に述べたようなマスコミの勘違いは、朝日に限ったことではない。何か起こると特定の人や組織を徹底的に痛めつける、そういう体質もまた改めるべきではないか?朝日に起こったことはある意味で氷山の一角かもしれず、マスコミすべてが、今謙虚さを求められていると考える。

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