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 セールスジャパンの経営を始め、様々な事業活動に携わるマイク丹治が、日々仕事を通じて感じていることをつづります。国際舞台での活動も多いので、日本の政治・社会・産業の課題などについて、グローバルな視点から、コメントしていきたいと考えています。

少しゆとりを持とう!

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ゆとりなどと言うと、ゆとり教育の弊害みたいな話になるかもしれないが、教育においてもゆとりそのものが否定されるべきではないと思う。ただ、ゆとりという言葉がどうも実質的に難しいことは教えないというようにとられ、それが基礎学力の低下につながったとすれば残念なことだが。

新年を迎え、ここ数年と比べて、少し静かな正月だったと感じている。それが我々の心のゆとりにつながっているのであれば、それは喜ばしいことだ。年末のテレビで、小売の世界で益々大型店が勢力を伸ばし、大量の発注による、或いは幅広い物流システムによる品ぞろえとコスト低下をもって、業績を伸ばしているのを目の当たりにした。

確かに、一か所ですべてが揃い、しかも安ければ、消費者たる我々はとてもありがたい。だが、何事も、何でもそろっている安い店を目指すのが本当に社会を支える経済構造として好ましいのだろうか?以前も若干触れたが、あれだけのショッピングモールの集積のある米国においてすら、旧態然とした小さな商店街の小さな店は成り立っている。

もちろん、日本の商店街でも最近見られるような、若干の工夫をして消費者のニーズに応えているのだが、それ以前に社会全体として、功利主義を貫くように見える米国においてすら、地域の小さな商店を大事にしようとする仕組みがあるように思える

品ぞろえは決して多くないし価格もちょっと高いが、何があるか分かっていて、お互いに理解しあえて、毎日一言声をかけあえる商店、それがご近所のお客様のために更に様々な工夫をすれば、それは十分消費者として満足できるサービスではないのか?そして、そのような店をいくつも回ってようやく今日明日の食事の準備が出来る、これこそ効率は悪いが人間らしい一日ではないのか?

すべてを一か所で手に入れ、更に冷凍食品などを中心とした、全く手間のかかっていない食事、一日の生活が本当に人間にとって素晴らしい毎日になるのか、今一度考えてみても良いのではないか?

Economistのクリスマス特集の最初のところに、2014年を迎えるに当たって、ちょうど100年前の第一次大戦と似たような状況であるとの記載があった。当時の膨張を始めたドイツと当時の世界の中心であった英国の確執が、楽観主義だった当時の欧米諸国の情勢にも関わらずあっという間に大戦へと導いたという歴史認識との比較で、現代を語っている。

ちょうどドイツに対応するのが中国で、対峙するのが米国。しかも企業は利益を上げることにだけ奔走し、一方で大国はナショナリズムに走るという点で、極めて似通った状況だと指摘する。因みにナショナリズムの一例として、日本も挙げられている。以前私も同じようなことを指摘したことがあるが、人類は過去から多くのことを学んできたので、簡単に世界大戦のようなことは起きないと思いつつも、同時にあまり成長していないなとも感じる。

その意味でも、失われた20年から覚醒し、経済成長を求めるのは良いが、ただがむしゃらに成長を指向することが本当に望ましいのか、今一度ゆとりをもって考えてみても良いのではと感じるのだ。上記の記事は、日本のナショナリズム的政策を中国と同じく国内経済改革の課題を覆い隠すものとして、という表現で示している。

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