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 セールスジャパンの経営を始め、様々な事業活動に携わるマイク丹治が、日々仕事を通じて感じていることをつづります。国際舞台での活動も多いので、日本の政治・社会・産業の課題などについて、グローバルな視点から、コメントしていきたいと考えています。

大学のあるべき姿って?

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このところ、地下鉄の広告で、大学のオープンキャンパスの案内が目立つ。しかもちょっと見てみると、これが各大学とも短い時間に何度もオープンキャンパスの機会があるようだ。

オープンキャンパスというものに行ったことがない世代としては、どのようなことが行われるか全く分からないのだが、ちょっと不思議に思ったのは、何故このようなイベントがあるかということだ。

もちろん、少子化が進んで、大学が生き残りをかけて、学生の確保に動いているのだろうと推測するし、大学もある意味サービス産業なので、将来のお客様のためのマーケティングを丁寧にという趣旨も理解できないわけではない。

だが、そもそも大学を目指す生徒からすれば、関心ある大学があれば普通に自分で見に行けばよいと思うし、その方がそれぞれの大学の通常の状況が見れて、判断には役に立つのではないか?少なくとも、大学で入場制限があるようなところはあまりないと理解している。

ところで、また閣僚が不規則発言で問題を起こしている。発言の全体を聞いたわけではないが、どうも一部を聞いた印象では、ワイマール憲法のあるドイツにおいてすら独裁者は現れたのだから、ただ憲法に依存するのではなく、これを運営する国会や内閣をきちんとチェックすることも大事だ、と言いたかったのではないかと思う。

だが、最大の問題は彼ほどの高齢者でも欠けているわが国民の歴史への認識だ。サッカーの試合で指摘された意味ではないが、どうも内田樹氏の辺境国家日本でも指摘されていたように、わが国は島国で他国と離れているので、他民族との接触が少なく、その分他国との歴史的経緯に対する配意が不足しているのではないか

つまりナチスについては、未だに逮捕者が出るくらい欧米諸国にとっては忌まわしい歴史的出来事であるという配慮が欠けているのではないか、と感じるのだ。だからどういう意味合いであっても、そもそも口に出してはいけないことなのではないか?

どうも第二次大戦とその後の占領下の時代を、そもそも当時の戦中派や戦後派の人たちは思い出したくなかったのではないかと思われる。だから我々を含めて後世の人間は、極めてわずかのことしか知らされていない。それが認識の欠如につながっている可能性もある。ただ、大部分の日本人がそもそも苦しめられ、その記憶を消したいと思っているということは、逆に海外の方々にも理解いただく努力が必要かもしれない。

閑話休題。大学の話だが、そもそも少子化で競争激化、だから学生確保という前に、そもそも大学のあり方とか、今一度考えてみても良いのではないか?最近は、バカロレア準拠の高校も増えて、大学から海外に行く人も決して多くはないが増えてきている。また、話は二転三転しているが、東大を中心に学期の見直しの話もある。

誰でもが高等教育をというのは良いが、そもそも同年代の4割も5割も高等教育を受ける必要があるのか?そして大学の教育は本当に意味のあるものなのか?また、以前から指摘されている、入学が難しい日本の大学と、卒業が難しい海外の大学という違いをどう考えるのか?

これは少なくとも自分の時代からそうだが、一部の真剣に勉強していた、或いはしている学生を除いて、日本の大学はある意味でモラトリアムであり、その間に受験勉強の苦しみから解放され、様々な遊びを覚え、そしてその後40年にわたって続く苦しい就業生活に備えるという色彩が強いと思う。

だが、一方で高校を卒業してすぐに仕事に就く人々と比較したときに、何故そのようなモラトリアムが許されるのか?それは大学でそれなりに高等な教育を受け、それが次の仕事に役に立つからではないか?だが、では大学教育は本当はそんな意味があるのか?

私は、最初の職業は銀行員だが、当時は銀行はかなりの数の高校卒業生を採用していた。そして、これは地方の商業高校などの優秀な生徒に来ていただくという形で行われていたと理解している。だから我々のような大卒が入社すると、支店などには自分より若い先輩がいて、仕事の基礎を教えてくれるという図式だった。

その後の仕事の中で感じたことは、高校卒業の方々の方が変な先入観がなく真面目に仕事に取り組むので、与えられた仕事によってははるかに大卒より仕事も出来るし優秀だということだ。もちろんそれぞれの出身高校でも上位の優秀な人々をお預かりしていたということもあるのかもしれないが。

だから、猫も杓子も大学へということではなく、もう一度大学の役割を見直して、不要な大学は廃止する、逆に本当に意味ある高等教育を行える大学に変えていく、そして基礎教育水準の確保は必要だとしても、今のような受験制度は廃止し、それだけ大学の数があるのであれば、誰でも入学できるようにして、その代わりちゃんと勉強しないと次に進めないようにすればよいのではないか?

学期を変えることで、優秀な生徒を海外からも、ということではなく、まずは大学の教授陣のレベルを上げて、意味ある教育を出来るようにする、というところから始めるべきだ。そしてそれが出来ないのであれば、東京大学であっても廃止すれば良い。

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