めんじょうブログ―羊の皮をかぶった狼が吠える
シリコンバレーのサムライ・ウルフが、イノベーションについてつぶやきます。(時々吠えることもあります。)
私の会社(ネットサービス・ベンチャーズ、以下NSV、www.nsv.com)は、シリコンバレーに本拠を置いてシリコンバレーでのベンチャー育成を進めながら日本企業への未来事業コンサルティングを行ってきた。
10月19日にプレス発表したのだが、シリコンバレーを中心に急拡大を続けるソーシャル、モバイル系のベンチャー企業の開拓及び事業開発のサービスを日本企業に提供するプログラムを開始した。まずは、ミクシィ(Mixi)が参加し、すぐ後にオプト(Opt)が続いて参加した。NSVの関連ベンチャーキャピタル(VC)である米ブルペン・キャピタルへの出資を、NSVを通じて行うことで、ソーシャル、モバイル分野の情報を早く、広く、深く得るとともに、NSVはベンチャー・スキャン手法のノウハウの提供や、新事業、新サービスの提案をミクシィとオプトに対して行うものだ。このプログラムはTechCrunch Japanでも取り上げられたので、ご記憶の方もいらっしゃることと思う。(TechCrunch_NSV-Bullpen)
米国のソーシャル、モバイル分野のベンチャー創造は活況を呈しており、将来に示唆を与える数々の新事業が続々と誕生しているが、日本企業には的確な情報がなかなか入って来ないという問題があった。更には、ソーシャル、モバイル分野におけるベンチャー投資は、ここ数年台頭してきた「スーパーエンジェル 」と呼ばれる新しいVC群が中心的な役割を担うようになってきており、投資家にならない限り以前にも増して情報が入りにくい状況となっている。NSVの関連企業であるブルペン・キャピタル(Bullpen)は、スーパーエンジェルの投資案件のフォロー投資をするVCであり、スーパーエンジェルとの幅広いネットワークを有するため、有益な情報にアクセスできる強みがある。
VCは投資リターンを得ることが目的であるため、新規事業の種となる情報には豊富にアクセスできる一方で、事業会社に対し戦略的な情報提供及び事業提案を行うことは重要と考えておらず、能力的にも不可能だった。NSVは、「ファンド・オブ・ファンズ 」(Fund of Funds)と呼ばれる手法を利用することによりブルペン・キャピタルに出資し、投資案件情報を優先的に得ると同時に、ミクシィやオプトの戦略課題に取り組むことができる仕組みを開発した。NSVは、日本の大手ハイテク企業へのコンサルティングを多く行う一方、シリコンバレーで多くのベンチャー企業を育成する経験を持つ。この経験を活かし、現地でのネットワークとノウハウからこのような「戦略的ファンド・オブ・ファンズ」の運営が可能となった。
NSVの戦略的ファンド・オブ・ファンズには、ミクシィとオプトに続きさらに数社の参加が予定されている。
NSVでは多くの大手日本企業に未来事業のコンサルティングを提供してきたが、実行の第一歩を躊躇する企業が多いのが課題だった。今度NSVの開発した戦略援助のユニークな仕組みは、参加企業の実行が前提となっている。日本を代表するネット企業であるミクシィとオプトがこの仕組みに真っ先に参加されたことの意義は大きい。活動を開始してまだ数カ月だが、ブルペン・キャピタルからの情報は予想以上に質量共に充実しており、ミクシィやオプトへの戦略案の検討ではすでに大きな手応えを得ている。この活動を通じて立ち上がるミクシィやオプトの新事業のニュースが発表されるのももうすぐだと思う。乞うご期待!
ミクシィ社長の笠原健治氏からは以下のようなコメントをいただいた。
「ソーシャル関連市場は発展拡大時期にあり、スマートフォンの普及に伴い、より新たな事業機会が広がりつつあると考えています。その中で、シリコンバレーに根を張りながら日本企業へのコンサルティングに定評があるネットサービス・ベンチャーズ社(NSV)と連携することには大きな意義があると考えています。NSV社が関係するブルペン・キャピタルは、日本企業がなかなか入りづらいシリコンバレーのコミュニティの中心で活躍しているVCであり、NSV社との連携がミクシィのさらなる発展に大きな役割を果たしてくれるものと期待しています。」
日本マーケティング協会の会員向け月刊誌「マーケティングホライズン」に寄稿しましたので、転載します。(編集委員の本荘修二さん、ありがとうございます。)
*********************
イノベーションのメッカとして知られる「シリコンバレー」は、ヒューレット・パッカード、インテル、オラクル、セールス・フォース、アップル、ヤフー、グーグル、フェイスブックなど、綺羅星のごとくの世界企業を輩出した。シリコンバレーがこれほどイノベーションの中心であり続ける鍵はそのエコシステムにある。
シリコンバレーはサンフランシスコ近郊の左右を山と湾で囲まれた狭い地域で、ここにベンチャー企業、投資家、専門家(弁護士や会計士など)、大学、非営利団体、大企業のラボ、などが密集している。ベンチャー企業が急成長して上場したり大企業に買収されることにより、成功者には大きな利益がもたらされ、同様に成功を夢見る起業家が次々と現れる。買収により大企業で活躍するようになった事業家は、さらにベンチャー企業買収の活動を加速させる。ベンチャー企業の成功が多いために、ベンチャー指向の学生が増え、大学もそのようなキャリアを推奨する。一方、ベンチャー企業が立ち上がらず失敗しても、それを経験した人はすぐに新たに仕事が見つかる。「失敗してもチャレンジした方が道は開ける」と思うから、大学や企業から新しい事業にチャレンジする人が次々と現れる。成功の出口(上場や買収)が見えているから、投資家も積極的にチャレンジャーに投資する。投資リターンが大きいから、金融機関からの資金がさらに流入し潤沢な資金を持つベンチャー・キャピタル(VC)が栄える。ベンチャーが成功することによって、そこに関わる人たちも恩恵を受けることが明確に見えているので、それぞれの知恵が惜しみなく共有される。このように、シリコンバレーは、人・知恵・金の流れの循環が出来上がっている。
シリコンバレーには世界中の大企業や官庁が視察に来る。「鍵は強力なVCだ」「スタンフォード大学を中心とした産学協同だ」などと理解して本国でそれを応用しようとする。しかし、部分だけ見てもうまくいかない。VCがあるからベンチャーが興隆するのか、ベンチャー創業が盛んだからVCが発達したのか?スタンフォード大学が産学協同を進めたからベンチャーが育ったのか、ベンチャー興隆に対応してスタンフォードが門戸を開いたのか?エコシステムは一元的、人工的に誰かがトップダウンで築いたものではなく、自然発生的に循環が発展したものだ。サンノゼ市はそもそもベンチャー企業にはまったく無関心で、行政が急成長企業の足を引っ張ることは稀ではなかった。シリコンバレーが世界的に有名になってからサンノゼ市は「わが市こそシリコンバレーの中心」と言いだしたのだ。このように「循環」が起きているエコシステムでは、原因と結果を混同し易い。
もうひとつ見落としてはならないことがある。エコシステムが有効に働く根本的な要素は、そこに集う人々のマインドにある、ということだ。机上で組織図を書き、地域のエコシステムの絵を描いても魂が入っていなければ、「人・知恵・金」のサイクルは回らない。例えば、VCは為政者や金融機関がそのような仕組みを作ろうとして出来上がったのではない。既存の投資家が見向きもしなかったリスクの高い事業創造への資金提供を敢えて行ったのは個人だった。インテルに投資したアーサー・ロック、アプライド・マテリアルズに投資したジーン・クライナーとトム・パーキンスなど最初は個人の情熱で出資金を集めたのだ。(因みに、現在インテルは世界一の半導体メーカーであり、アプライド・マテリアルズは世界一の半導体製造装置メーカーである。クライナーとパーキンスは後に世界一のVCを築いた。)このようにリスクを負って道を拓いたのは一流企業や行政ではなく個人であることを忘れてはならない。
私が最近創業に関わったブルペン・キャピタルは、ポール・マーティノ、ダンカン・デイビッドソン、リチャード・メルモンというそれぞれシリコンバレーのエコシステムの中枢にいる3人により創業された。メルモンは、インテルやアップルの黎明期に関わりその後エレクトロニック・アーツを共同創業したシリコンバレーの重鎮であり、デイビッドソンは経営コンサルタントを経てベンチャー創業し2つの大成功を収めている。マーティノはソーシャルネットワーク分野の草分けであり、2つのベンチャー創業を通じて、数々の人的ネットワークを築いた。そのネットワークの仲間たちが、現在のソーシャルネットワーク系、インターネット系、スマートフォン系の新しい市場創造の中心にいる。このようにエコシステムの3世代のインサイダー同士が組んで新たなVCを作るダイナミズムはシリコンバレーならではの特徴である。そこには先輩も後輩もない。私の会社には裏庭がありよくバーベキューパーティを開く。そこに集う情熱を持った人々が縦横につながり、果敢に新しい事業にチャレンジしていく。多くの「普通」のビジネスマン、技術者が今ではエコシステムのインサイダーとして大きな影響力を持つ人物に育っている。誰でもエコシステムのインサイダーになり得る、という感覚はみんなの情熱をさらに高めるのだ。
さらに、最近シリコンバレーでは多くの「コア・ワーキング・スペース」「シェアード・オフィス」と呼ばれる起業家の共同オフィスが多く誕生している。これらはすべて民間、しかも多くの場合個人によって運営されている。大部屋に机をならべて、起業家やベンチャー企業の社員が仕事をしている。隣はまったく別のベンチャー企業だ。事業計画を白板に書いていたら、隣の起業家が口をはさんできた、という光景は日常茶飯事だ。頻繁に外から訪問者があり、マーケティングや資金調達などありとあらゆる分野でのフォーラムが行われている。シリコンバレーのエコシステムをひとつのビルの中に凝縮したような共同オフィスでは、事業創造のスピードが格段に加速化している。
このような共同オフィスを見ていると、高度成長期の日本企業の大部屋オフィスを思いだす。部門を越えて人が出入りし、成功を夢見てお互いに吸収し合おうという気概が横溢していた。コンプライアンスやコンセンサスなどというお行儀に囚われず、のびのびと事業創造に取り組んでいたように思う。日本がシリコンバレーのエコシステムから学ぶとすれば、それは意外に温故知新にあるのかもしれない。
日本のテレビで学校の地震訓練風景を放映していたが、先生の指導で生徒が机の下に潜っていた。これがいかに間違いか、ということを以下の記事で知った。が、その後の読者からのコメントで、この説には賛否両論あることが判明。私は専門家ではないので判断は控えるが、以下のコップ氏の理論は、地震に脆弱な発展途上国の建物により有効で、日本のような耐震構造のしっかりした建物では今までの方法の方が有効かもしれない、という印象だ。今までの常識を疑うという意味で注目したいと思うが、読者のお叱りの通り、命に関わることなので「参考意見」としてお読み頂きたい。
「命の三角空間」― ダグ・コップ氏(原文の翻訳にはConyac社のご協力をいただいた。誌面を借りてお礼申し上げる。)
私は、世界で最も経験豊富と言われるアメリカの国際救助チーム”ARTI”の救助隊長・災害マネージャーです。ここで紹介する方法により、より多くの命が震災から救われることを期待します。
私は、崩壊した875の建物の中に入り込み、60か国からの救助チームと一緒に作業し、複数の国で救助チームを組成してきました。災害軽減のための専門家として国連でも2年間勤務しておりました。私は1985年以降、世界中のあらゆる大きな災害に取り組んでまいりました。
私が震災の建物に初めて入ったのは、1985年のメキシコシティーの学校でした。どの子どもも机の下にいました。どの子も、骨の厚さにまで押しつぶされていました。生徒たちは机の隣に横たわっていれば生き残ることができたはずなのに、なぜそうしなかったのか不思議に思いました。当時の私は、子供たちが何かの下に隠れるようにと先生から教えられていたことを知りませんでした。
単純に言うと、ビルが崩壊した場合、天井の重さによって屋内の家具や物が押しつぶされます。しかし、その際に家具や物の脇に、空間を形成することになります。これが私の言う、「命の三角空間」です。物が大きいほど、また強固であるほど、押しつぶされても元の形を保つ可能性が高くなります。元の形を保つ可能性が高いほど、この空間は大きくなり、この空間にいる人間が怪我をしない可能性が高くなります。崩壊したビルをテレビで見る機会があったら、この形成された「三角形」の数を数えてみてください。いたるところに見つけられるはずです。三角形は崩壊したビル内で最も目にしやすい形です。
具体的な地震時の安全確保のためのヒントをここでご紹介しましょう。
1)建物が崩壊した場合、ほとんどの「身をかがめて隠れた」人たちは圧死します。机や車の下に隠れた人たちは、押し潰されます。
2)猫や犬の死体、または赤ちゃんの遺体は、体を丸めた状態で発見されます。体を丸めた状態は、本能的な生き残りのため、または安全確保のための姿勢です。地震発生時には、小さな空間でも生き残れるように、体を丸めるべきです。地震発生時には、少なかれ圧縮されても空間を形成するような物、例えばソファーや大型のしっかりした家具などの隣にすぐに移動しなさい。
3)木造立ての建築物は、地震発生時に屋内に居た場合、最も安全な建物です。木は柔軟性があり、地震の力に応じて動きます。もし、木造の建築物が崩壊しても、大きな生き残りの空間が形成されます。また、木造建築物がつぶれても、上から落ちてくる重量は軽く、また分散しています。レンガ建ての建物は、レンガがばらばらに崩れます。レンガは多くの怪我人を出しますが、コンクリート板よりは圧死する人数が減ります。
4) 就寝時に地震が発生した場合は、そのままベッドの脇に転がり落ちなさい。ベッドの周辺には安全のための空間が形成されます。地震が発生した場合に、ホテルでの生存者が多いのは、各部屋のドアの裏側に、地震発生時には、ベッドの脇に横になるようにという注意書きを貼り付けているからです。
5)地震が発生した場合に、ベッドから起き上がったり、窓から避難することができない場合は、ソファーまたは大きな椅子の脇に、丸くなった姿勢で横になりなさい。
6) ビルが崩壊した場合に、玄関に居た人は、ほぼ間違いなく圧死します。それは玄関のドアの下に立っている間に、鴨居と枠が前後に倒れた場合は、その上から落ちてくる天井によって押し潰されるからです。もし、ドア枠が横に倒れた場合は、玄関ドアがあなたの体を真二つにします。どちらの場合も、死は免れません。
7)決して階段に行かないでください。階段には異なる「振動モーメント」(建物の主要部分からくるベルベルの揺れ)があります。階段と建物の残骸が、階段が壊れるまで連続してお互いにぶつかり合います。落ちる前に階段にいた人々は、階段踏み板によって切り刻まれて恐ろしいほど損傷を受けます。たとえ建物が崩壊しないとしても、階段から離れていてください。階段は一番損害を受け易い建築部分です。たとえ階段が地震によって崩壊しないとしても、逃げ惑う人々によって負荷がかかりすぎると、後で崩壊してしまうかもしれません。残った建物が損害を受けなくても、階段は安全性のために常に検査しなければなりません。
8)屋内で建物の外壁の傍に寄るか、できたら屋外に出る。屋内の場合、建物の外に近いほど安全です。屋内で建物の外側から遠い場所に居るほど、非難ルートの確保が難しくなります。
9)車内の人間は、地震で頭上の道路が崩れて車上に落ちてきた場合に押し潰されます。サンフランシスコの高速道路でコンクリートの道が落下した時は、まさにこの状態でした。サンフランシスコ地震での被害者は、車内にいた人たちで、彼らは全員死亡しました。車から出て、車の隣に座るか横になっていれば、全員が助かったと思います。押し潰された車は、倒れた柱に直接潰されたもの以外は、車の隣に1メートルほどの高さの空間を形成していました。
10) 崩壊した新聞社やその他多量の紙のあるオフィスの中を這って検証し、紙は押しつぶされないことがわかった。積み重ねられた紙の周囲に大きな空間があった。
1996年に我々はある映画を制作した。ここで私のサバイバル法が正しいことが証明された。トルコ連邦政府、イスタンブール市、イスタンブール大学、ケース・プロダクションズ、ARTIがこの実地的・科学的実験の映画制作に協力した。学校と家屋に20体のマネキンを内部に配置して建物を破壊した。10体のマネキンはいわゆる「duck and cover」(50~80年代にアメリカで推奨されたしゃがむ防御術。)を、そして残りの10体のマネキンには私の「命の三角空間」サバイバル法を用いた。地震による倒壊シミュレーションの後、我々は瓦礫をかきわけ建物のなかに入り、実験結果の記録を撮影した。
建物の崩壊で生存する実践方法を記録したこのフィルムは、しゃがんで(duck and cover)身を守った人たちの生存の可能性は0%だった。「命の三角空間」という私の推奨方法を取った人々は、おそらく100%の生存率となる結果だった。このフィルムはトルコだけでなく他のヨーロッパ諸国やアメリカ、カナダ、南米でテレビ放映された。
この避難方法を広め、命を救おう。世界で起きている自然災害にどうか備えを!
企業組織では痛みを伴うイノベーションに抵抗を示すことが多いが、今回の震災で、「人災」と「イノベーションへの抵抗」の症状は共通だと感じた。
症状①:『今自分でできる範囲のこと以外は思考から排除する。』
企業に新しいアイデアを提案すると、できない理由をたくさん挙げる人が多い。
去年、産総研の研究者が、1000年に一度の大地震と大津波の可能性を地質調査で明らかにした。しかし、政府、自治体、東電はそれを無視した。それを認めても、対策を実行できないと考えたからだ。
地震発生からすぐに原発から40キロまで放射能の拡散範囲が及ぶことを政府の放射能監視システムが示した。しかし、政府はそれを公表せず、その日の非難指示は10キロ圏内とした。政府が「輸送手段や受け入れ先を確保するのは無理」と判断したからだ。
症状②:『リーダーが自分の手を汚さず、部下に丸投げして、責任を取らない。』
企業トップが、革新的な事業案を自分の頭で考えず、判断を現場に任せてしまうことが多い。企業トップの後押しのない現場に革新的な案を推す勇気は出ない。
震災後、自主的に野菜を検査した農家があり、低濃度の放射能が検出された。政府に問い合わせたところ、「危険だと思ったら、自主回収してください」という責任のがれの返事だったそうだ。農家は、必要のない回収をすれば大損害、回収しないで後で批判されれば事業継続さえ危い、という苦境に立たされた。
症状③:『今まで大丈夫だったから、これからも大丈夫だ。』
昨日まで優良企業だったから明日も優良企業だという保証はないが、安定成長に慣れてきた経営幹部や従業員たちはその安定が明日も続くと思っている。だから、いざ市場が急激に変化した時に対応できない。
原発は、他のシステムと比べ物にならないくらい安全性が高い。しかし、決して100%ではない。ところが、原子力政策上の理由から「100%安全」と言い続けるうちに、いつしか「過去40年も安全だったから、これからも100%安全に違いない」と思うようになった。100%安全と考えた瞬間、「壊れた」時の対策を考える思考力が停止する。それが、災害時の安全対策プランの手抜かりをもたらした。
日本企業のリーダーシップ不在がイノベーションのブレーキになっている状況と、天災後のリーダーシップ不在で引き起こされた「人災」の原因は、共通している。企業変革や被災地の復興を、日本人の得意な現場の頑張りだけで推し進めるのは間違いだ。今ほど強いリーダーが求められている時はない。
”It's not innovation until it gets built.” (Garry Tan, co-founder of Posterous)
”実際に作らなければイノベーションとは言えない。”
コンサルタント出身の僕にとっては耳の痛い言葉だ。マッケンナ・グループでコンサルタントをやっていた時から今までに数々の新事業ビジョンをクライアントに提言してきた。しかし、実現したのはそれらのクライアントではなく、シリコンバレーの企業や起業家だった。iTunes, iPod, iPhone, Pandora, YouTube, など枚挙にいとまがない。コンセンサスづくりに汲々としていてはだめだ。回りのほとんどが反対するくらいの時に実行するくらい自分を信じる勇気を持つこと。今の大企業には、自分で考える自信とその勇気がない。私の仲間の成功には、必ずその「実行」が伴っている。Electronic Arts, My Space, Double Click, Yahoo, Covad, WebLogic, などなど。起業し、会社を作り、製品・サービスを開発してナンボ。だから、エンジェル・インキュベーションを続けてきた。コンサルティング活動でビジョンを描き、インキュベーションで実現する。これから、この活動をますます加速化したい。日本の起業家よ、大志を抱いてシリコンバレーに来たれ!
「なぜそんなに苦労してまでシリコンバレーに移住したのですか?」とよく聞かれます。短くは「そこにシリコンバレーがあったから」としか答えようがない。シリコンバレーに移住してから20年が経とうとしています。どこの企業にもいる普通の技術者だった私がなぜ裸一貫でシリコンバレーに渡ることになったか?このシリーズは、その物語です。まずは、モラトリアム的な気持ちで入った大学院から企業に就職したところからお話を始めましょう。
私はもともと研究者だった。大学では物理化学を専攻しましたが、特にその学科にこだわりがあったわけではない。修士課程の時に大変お世話になった先輩からこんなことを言われた。「研究を極めて学究の徒にならないのだったら、早く企業に就職して『ものづくり』に関わりなさい。」このアドバイスがとりあえずの人生航路に指針となる。大学に募集が来ていた企業の中から私は小西六写真工業を選んだ。写真が趣味だったこととピッカリコニカというカメラの宣伝をテレビで見ていたから、という単純な理由だ。役員の面接で私はこんなことを言った。「企業に入るからには、モノ作りの現場に行きたい。だから研究所ではなく製造現場で働きたい。」後で聞いた話だが、その時面接した技術担当役員は、「技術系の学生はみんな研究所を希望するのに、この学生は見上げた心構えだ」と言って、涙して喜んだそうだ。私は先輩の受け売りでそう発言したのだが、どうやら企業人の心に刺さったらしい。こうして簡単に就職できた。今の就職難での学生の努力の様子をニュースで見ると申し訳ない気持ちになる。

さくらカラー(後にコニカカラーに名前が変わり、箱もブルーになった。)
さて、実は私は製造現場に配属にはならなかった。ただ、現場にとても近い研究所だ。小西六の主力商品であったカラーネガ感材の開発研究を担当する感材技術研究所である。感技研と社内で呼ばれていたこの部署は、社内でも陽の当たる有力部署だったらしい。どの企業でもそうだが、主力商品を扱っている部門は稼ぎが大きいので態度も大きい。後に、私は感技研の効率化(すなわち人減らしとITによるシステム化)とそれにより捻出した予算を将来の製品のための基礎開発部門に回すことを提案して物議をかもしだすことになるが、入社早々は写真技術の真髄に触れ、写真フィルムの開発や製造現場を経験することが楽しくて仕方なかった。大きい事業だけあって関連部署も多く、学歴に関係なく優秀な技術者や実験助手がたくさんいた。世界的に数社しかできない、写真フィルムの生産に関わっている社員にはその誇りがみなぎっていた。大学の研究生活を棄てて企業人となった私にとっては幸先のいいスタートだったのではないか。私は毎日が楽しくて仕方なかった。
特に、入社後すぐに参加した現場実習は今でも強烈に記憶に残っている。それは写真フィルムの工場実習。写真は感光材料だ。当然、生産現場はほぼ真っ暗。読者には本当の「真っ暗闇」を想像してもらって構わない。それくらい暗い。その暗闇のなかで、蛍光塗料よりももっと暗い特殊な懐中電灯を頼りに、釜に用意された塗布液を検査したり、巨大な釜を洗浄したりする。それを明るい外と同じ素早さで作業しなくてはならない。塗布液を調整する釜の部屋は30度を越え、作業員は汗びっしょりになる。普通の人には想像もつかない世界がそこにある。
カラーフィルムは14層の感光層や分離層などがTACフィルムと呼ばれるフィルムベースの上に塗られていた。銀を主原料とする感光材料とカラー画像(ある種の色素)の元となる有機化合物などが水に溶けたゼラチンに分散されており、それを一気にフィルムに塗布する。この塗布液は工場の建物の上の階に並んでいる巨大な釜で調整されることは、上で述べた通りだ。塗布は、4-6層ほどを同時に行う。層の間で液同士が溶け合う前にフィルム上に塗布して乾燥してしまうという離れ業だ。それを赤、緑、青の感光層群に分けて3回塗布する。これらの塗布は全自動だ。塗布されたフィルムは巨大なローラーの間を動いていくのだが、乾燥のための温風が無数の穴から噴き出ており、それによりフィルムは宙に浮いており、両面ともローラーに触れないようになっている。乾燥が終わったフィルムは巻き取られ、光の入らない巨大な容器に入れられ、別の工場に運ばれる。そこで縦に裁断され、パトローネと呼ばれる光の入らない丸い筒にフィルムが装填される。これが、いわゆるカラーフィルムとして写真店に売られるわけだ。
私は、この工場で3カ月実習した。工場は窓のない10階建てくらいの建物なので、外からは巨大な箱に見える。24時間稼働しており、勤務は三交代だ。確か、早朝から夕方まで、夕方から翌朝まで、それに昼から夜中までの3シフトだったと思う。三交代勤務は日勤の従業員より給料がよかったので(50%くらいよかったのではなかろうか)、現場の作業員は結構元気で明るい人が多かった。私は、塗布液の準備をするグループのひとつに配属された。それぞれのグループは「組」と呼ばれており、その道何十年という熟練の「組長」がグループを仕切っていた。組長を始めとして現場の人たちは、私が感技研からの実習生ということで優しくしてくれたが、一方で大学出の技術者という訳で、「お手並み拝見」という雰囲気が痛いほど伝わってきた。まずは、真っ暗闇の中で動けるようにならなくてはいけない。ただ、高校時代は写真部にいたので暗室は慣れていた。これは合格だ。暗闇で作業するにはお互いの信頼が必要なので、不思議な連帯感がすぐにできたように思う。
作業の待ち時間には、真っ暗なところで、同世代の作業員とたわいないことを話したりした。ひとりは趣味がフライフィッシングだという。私はその頃フライフィッシングを知らなかった。どんなものか説明をしてくれたが、「随分ハイカラな趣味なんだな」と印象に残ったことを覚えている。自分の持っていた工場労働者へのイメージ―何となく地味で暗い―が覆されたような気がした。所詮、皆同じ人間だ、とその時思った。別の年上の作業員と仲良くなった。趣味はゴルフだと言う。私は、たまに練習場で球を打つくらいだったが、ゴルフの話に花が咲いた。私の実習の終わりの記念に、彼は私にパターをくれた。これは今でも私の宝物のひとつだ。
現場の社員旅行はすごかった。幹事の準備の周到さは修学旅行以上だ。その時は大島観光だった。バスを3台仕立て、工場から出発し、横浜の港に向かう。まず、積み込まれるおつまみと酒の段ボールの多さに圧倒された。それに各人が思い思いのつまみを持ってきている。バスが工場の門をくぐったとたんに「宴会」の開始だ。いきなりビールを勧められる。私は飲めません、と断り続けたが最後は根負けした。隣の中年の人からイナゴの佃煮を勧められた時は参った。躊躇していると、「お前は俺の酒を飲んだろう?俺のつまみは食えない、ていうのか?」私は意を決してひとつ口に入れた。カシャ、カシャ。川エビのような感触。意外に美味しかった。あのおじさんは今頃どうしているだろう?
バスが横浜に着いた頃にはみんなすっかり酔っぱらっていた。それからが地獄だった。大島に向けて乗船した船は小型の高速船だった。ご存じにように高速船は揺れる。酒酔いと船酔いが重なって、ビニール袋片手に七転八倒。あれほど苦しい船旅は後にも先にもあの時だけだ。目的地の大島でのことはまったく覚えていない。
こうして、工場実習は終わった。
この時の工場実習は、私の社会人としてのバックボーンにひとつになっている。「ものづくり」というものが少しわかったような気がする。後に私は経営コンサルタントになったわけだが、虚業と言われる世界で生きていく中でも常に地に足をつけられたと思うのは、この実体験のおかげだと思っている。イノベーションに関わる時、「ものづくり」で真剣勝負したことのない人には絶対に負けない自負がある。日本企業が今まで強かった多くの分野では、「ものづくり」だけではは勝てず、ソフトウェア・サービスと「もの」が融合しないと顧客価値を認めてもらえない時代が来ている。しかし、「ものづくり」に日夜努力して成功体験を積んできた人たちは頑固だ。彼らの意識を変えてもらうには、私のように「ものづくり」の心に少しでも触れた人間が説得に当たる役割があると思う。あれだけの技術の集積で作られていた写真フィルムの事業がデジタル技術の発達で跡形もなく消えてしまった。イノベーションの破壊力は時としてすさまじい。ものづくりの現場に没入していると、その足音が聞こえないのだ。あのまっ暗闇の巨大工場を回していくことは大変なことだ。だからこそ、一所懸命に仕事していると外からの危険には気がつかないものだ。私は、イノベーションの破壊力を一部始終見ることになったのだが、その原点は、あの工場実習にある。
<続く>
MIT原子力工学科(Massachusetts Institute of Technology, Nuclear Science & Engineering; MIT NSE)
<原文>
http://mitnse.com/2011/03/13/why-i-am-not-worried-about-japans-nuclear-reactors/
<日本語抄訳>
http://bravenewclimate.files.wordpress.com/2011/03/fukushim_explained_japanese_translation.pdf
原発事故を理解するにはまずこの記事がお勧め。MIT原子力工学科のサイトにあるJosef Oehmen氏の寄稿。その後やや修正されている。これが私が今までに読んだ中でもっとも正確で中立的と思える。MIT NSEのサイトには他にもいい解説がある。http://mitnse.com/
福島第一原発で何が起きているのか——米スリーマイル島原発事故より状況は悪い
大前研一
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20110315/263842/?top_f1RT
さすが大前さん。原子力の知識があり(上記MIT出身。しかも昔の知識なので、逆に40年も経つ福島原発の建設の頃の状況に詳しい?)、ロジックが感情で流れないので、話がわかり易い。ただ、最近の大前さんは日本の為政者/経営者に対する期待が限りなくゼロに近いので、原発は二度と日本では建設されない、と切り捨てている。でも、本当にそれでいいのか?十分に事実と議論を尽くして決めなくていいのか、と疑問に思う。
破局は避けられるか――福島原発事故の真相
広瀬隆(ジャーナリスト)ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/11514
「すべて私のごとき人間に想定でき、昨年8月に発刊した『原子炉時限爆弾』(ダイヤモンド社刊)に書いたことばかりが起こったのである」とする記事。本当なら、なぜ放置したのか?と疑問が残る。事実を知りたくなる。
未曾有の震災が暴いた未曾有の「原発無責任体制」
塩谷喜雄 Shioya Yoshio(科学ジャーナリスト)
http://www.fsight.jp/article/10319
「虚構の安心と安全は、東電と東大と経産省という、産学官のトライアングルで築き上げられてきた」と喝破する。私の知る東大原子力出身の人は誠実な人ばかりだ。国を思う、優秀で誠実な人が多くいた帝国海軍が戦争を止められなかった理由と似てないか?そんな仮説が頭をよぎった。
何故「脱」原発か?
原子力情報資料室(CNIC)
http://www.cnic.jp/modules/about/article.php?id=15
反原子力勢力の考え方を知るいい資料。議論の視点を多く提供してくれるが、ロジックの手前味噌が散見される。「原子力情報資料室」という中立的なネーミングがなかなか巧みで感心する。
「ヨウ素剤デマ」の厄介
おごちゃんの雑文
http://www.nurs.or.jp/~ogochan/essay/archives/3118
ちょっとおとぼけ風の書き出しだが、デマに関する鋭い観察が光る。「デマを防ぐ有効な方法は『正しい情報を増やす』に尽きる。つまり、情報を出す側が頑張らなきゃいけない。いわゆる啓蒙活動だ。(中略)専門家はその知識か活動を広報する義務がある。」という文章には感服した。
私も「知識は力なり。」と常々肝に銘じてきた。それは、「国民の思考を停止させる」という愚民政策が国家の管理には都合がいい、ということと裏返しだ。
私は原子力推進の立場を取ってきた。しかし、日本の原子力政策には重大な欠陥がある。それは技術ではなく行政の基本スタンスにあると思う。
(1)政府は「100%安全」というウソを言い通すことで原子力政策を進めてきた。100%というシステムは世の中に存在しない。100%と言うことにより、思考停止となり、その確率を限りなく100%に近づける努力を公にやりにくく、万人の英知が得にくい。(100%安全であるなら100%に近づける努力は矛盾する。)
(2)電力会社は原子力が100%安全ではあり得ないことを知っている。しかし、(1)の理由から、盲目的に政府のガイドラインに従うことに徹してきた。政府は、100%と言った手前、電力会社にその責任を押し付けてきた。結果、責任は曖昧だ。
(3)上記(1)と(2)の理由により原子力が一部の原子力専門家の閉じた世界に止まり、ムラ社会状態になっている。感情的な反原子力の勢力と正々堂々と議論する、というよりも議論を避ける傾向にある。これでは、国民には本当の情報が伝わらないし、国民の理解レベルも上がらない。
(4)原子炉自体は信じがたいほどの安全設計と安全管理がなされている。隕石でも直撃しない限り壊れないとさえ言われる。ところが、その周辺システムが脆弱なことが多いように感じてきた。配管の点検がお粗末だったり、非常電源の設計思想が甘かったり(今回のディーゼル発電機の冠水による故障もこれ)。もっとオープンに英知を結集すれば、周辺システムのこのような欠陥は防げるのではないか。
因みに、このムラ社会体制は電力会社の中でさえもそうなっているそうだ。原子力関係の部署は、会社の経営陣にも本当の情報はすべて開示していないとまで言われている。記者会見に出てくる電力会社の経営トップが質問にしどろもどろなのは、原子力出身ではない経営陣が原子力の本当のことは深く理解していないから。一方、原子力部門の優秀なスタッフは、ムラ社会活動が長いので、一般の人とのコミュニケーションスキルが著しく劣るように思う。これは残念なことだ。
しばらく息を飲む状況が続くが、原子力関係者は今こそ胸を張って、いい知らせも悪い知らせも隔てなく開示されることを期待する。ムラ社会からの啓蟄の時が来たのだ。
原発事故を理解するにはまずこの記事がお勧めです。MIT原子力工学科のサイトにあるJosef Oehmen氏の寄稿。その後やや修正されています。これが私が今までに読んだ中でもっとも正確で中立的な内容でした。
<原文>
http://mitnse.com/2011/03/13/why-i-am-not-worried-about-japans-nuclear-reactors/
<日本語抄訳>
http://bravenewclimate.files.wordpress.com/2011/03/fukushim_explained_japanese_translation.pdf
一言で言えば、想定の数倍の地震により原発は持ちこたえ(炉のコアの技術はすごい)、無事に核反応の停止を終えたたが(設計通り)、周辺のシステムが動かず(これは大失敗、または大失態)、すでに核反応が終わった残渣よる汚染は避けられない。これによる汚染を最小限に抑えるために、炉の冷却や周辺住民の避難などを進めている。
それから、マスコミの多くが誤解していること。炉心溶融と核爆発はまったく違うことです。福島原発の「核爆発」「反応の暴走」はあり得ない。核反応は完全に終わっています。問題は、核反応の終わったあとの反応残渣の余熱の冷却に失敗したために、炉心(固形の燃料)が融け、容器が壊れ、残渣の核物質が気体と共に大気に出ることです。

ストレス社会との付き合い方
「思いやり経営」のススメ
テレワークが労働者のマインドを変える
求む、クックパッド男子
37歳の常識――我々は一生学び続ける