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アジャイルや機械学習、リーンシックスシグマなど、日々の仕事の中で見て聞いて感じた事を書き留めています。

エンジニアの胸ポケット

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ここ数年の間、僕の周りではベテランのエンジニアが定年退職することが多くなりました。先日もまた一人、僕の身近な人がめでたく定年を迎え、皆に祝福されながら職場を去って行きました。僕にとって彼は長年の間メンター(指導者)的な存在だったので、技術的なことだけではなく、個人的なことについても彼には大変お世話になりました。

一見、彼はどちらかというと古いタイプのエンジニアで、いつも好んでワイシャツとネクタイを身に着けていました。うちの会社でネクタイを身に着けているのはビジネス部門くらいなもので、営業部門ですら滅多にネクタイを着けている人は見かけません。そのためエンジニアリング部門でいつもネクタイを着けている彼は際立っていました。

彼のワイシャツの胸ポケットにはいつも決まって電卓とボールペンが入っていました。そしてどのワイシャツも、ボールペンのインクが染み出たためか、胸ポケットの底の方が黒く染まっていて、それが彼のトレードマークになっていました。

彼はちょっとした立ち話の時ですら数字の話になると、胸ポケットからさっと電卓を取り出して正確な数字を計算していました。その姿がいかにもエンジニアぽっくて、電卓など使わない今時の若いエンジニアの間では、電卓も彼のトレードマークになっていました。

僕も昔から電卓が好きだったので、彼と電卓の話になるといつも盛り上がっていました。新しい電卓を買ってはそれを見せ合って、どのメーカーのどのタイプの電卓が一番良いかなど、他の人にとっては他愛のないマニアックな話を彼とはよくしていました。そして会話の最後はいつも、彼が今でも机の引出しに箱ごと大切にしまってある HP-19C を見せてこう言ったのです、「アルバイトの時給がまだ1ドルで、ハンバーガーが25セントだった頃、350ドルも出してこの電卓を買ったんだ」と。

十年くらい前のことです。彼は新しい電卓を胸ポケットに忍ばせて僕のところにニヤニヤ笑いながらやってきました。「いいものを見せてやろう」と言って胸ポケットから自慢げに取り出したのがHP-35Sでした。HP-35Sは初代HP-35のリバイバル品で、35年ぶりに発売された電卓です。これには僕の電卓マニア熱が掻き立てられました。60ドル程度と比較的安価だったため、その日のうちに僕も購入しました。

彼は昔からHP(Hewlett-Packard)派で、一方僕はそれまでTI(Texas Instruments)派だったためHPの電卓についてはあまり知りませんでした。僕にとってはこのHP-35Sが初めてのHP電卓となり、それ以降RPN(Reverse Polish Notation)入力に夢中になりました。

僕も彼も昔はアセンブラ言語で組込み制御用のプログラムを作っていたので、このプッシュとポップを使ったレジスタ演算ができるHPのRPNは、昔話に花を咲かせる恰好の材料となりました。組込み制御用のプログラム開発がアセンブラ言語からC言語へ、そしてSimulinkによるモデルベース開発になった今でも、RPNは懐かしい昔を思い出させてくれたからです。

RPNだけではなく、ボタンの押し具合がぐにゃぐにゃしているTIの電卓に比べてHP-35Sのタッチはキーボードのように「カチッカチッ」と決まることや、多くの機能が「表」に出ている(機能がキーに直接割り当てられているため、メニューを使って奥に入って行かなくてもよい)ため計算が早くできることなど、HP-35Sを使い始めてから初めてHPの電卓に対する設計思想みたいなものを感じることができました。そしてなぜ彼が長い間HP電卓を使い続けたのか、その理由がやっと理解できました。以来10年以上、彼と僕は職場で唯一電卓を、そしてHP-35Sを使う仲間同士でした。

その彼もついに定年退職してしまいました。僕は彼が作った伝統を守り、これからも職場で一人で電卓を使い続けるつもりです。但し胸ポケットに電卓を入れるのではなく、机の上に置いてですが。

HP 35S.jpg

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