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愛のムチ。愛のゲンコツ。『愛の』式詭弁術について 或いは 恋との違い

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人の気持ちは大変うつろい易いもので、もうこの手の話題は忘れられようとしているようだ。すなわち、スポーツ指導における体罰・暴力に関する話題のこと。

まあでも、忘れられないようにタイムリーな時期をはずして話題にするのも意義あることだろう。まっ、意義なんてなくても気にしないんだけど。。

僕自身は思春期の方達の指導に対しての体罰は、全てが悪いとも言いかねると考えているのだけれど、それは模範的な少年だった僕は別として、この年代の子等の悪ガキぶりというのは全くタチの悪いものがあって、ゲンコツのひとつでも喰らわせなくては言うことなんか聞きやしないからだ。

僕も生徒時代にはよく殴られたものだけれど、それに「愛」を感じることは特になく、今をもってしても「怒り」をぶつけられたというコトしか感じられない。だけど、その頃の悪童どもは殴られてなお、それをあざ笑って次の日には屋上から唾するようなワルさをしたものである。

にもかかわらず、今回の一連の体罰の問題は気に入らないことこの上ない。

ムカムカとするのはなんだろう?

それは大きく2つ理由があると考えていて、ひとつは暴力の対象者が決して悪童ではなく、部活動をがんばる模範生であること。もうひとつは、体罰擁護者の中に「愛」という耳障りの良い言葉で、それを正当化する論調があることだ。

 『愛のムチ』

 『愛ある罰』

 『愛の拳(こぶし)』

みたいなやつだ。それらの大抵が経験主義からくるものがほとんどだ。

金八先生なら

「愛という字は真心、恋という字は下心」

とでもいいそうなこの『愛』という言葉で、物事の本質を曲解しているように思う。

これらは、『愛』という言葉を頭につけることで、全てを肯定してしまう、詭弁にすぎない。唾棄すべきものだ。「愛のムチ」なんて、本人が勝手に正当化しているだけで、傲慢なことこの上ない。

振り返って「恋」。

 『恋のムチ』

 『恋ゆえの罰』

 『恋の拳(こぶし)』

なんて使ったらどうだろう。すると不思議なことに、その行動の正当性はともかくとして、自らの欲求に則って暴力を振るっている表現となるため、まだそこに欺瞞や詭弁の類を表現する言葉にはならない。

『恋の』式の説明のほうが100倍マシである。

先日、テレビを観ていたら、元プロ野球巨人軍の投手であった宮本投手が下記の趣旨のようなことを語っていた。

宮本氏 : 「僕も指導の中で多くの暴力を伴う指導を受けてきた。けれど、それは今になってみれば自分のためのを思って拳を挙げてくれたと感じていて感謝しているし、今もそういった指導者と心の通う交流をしている」

司会者 : 「宮本さんも今、リトルリーグなどで指導を行っているわけですが、そこでは暴力を伴う指導を行っているのですか?」

宮本氏 : 「いやいや、今は時代が違いますから。叩くというようなことはしていません

・・・

もう話しにならない。時代が違う?自らの論理を正当化するすべはないにもかかわらず、暴力を伴う指導を肯定しているのだ。しかも自分は行わない、という矛盾を抱えた発言であることに、恐らく気がついてもいない。

言ってみれば『愛の』式詭弁術だ。

けれど、世の中には残念ながらこの「愛」のような詭弁はあまた存在する。
特に多いのは、「どちらともとれるような言葉」を使った詭弁だ。例えば

「にもかかわらず」

「だからこそ」

「だとして」

などの言葉だ。こいつらが多用されたら要注意だ。
(もうこの文章中にもあるかもしれない・・・)

つまり、こんな使い方のことだ。

「雇用問題が存在するにもかかわらず」

「デフレだからこそ」

「不景気だとして」

上記の言葉の語尾は肯定も否定も自在だ、あるいは文章全体の意味を逆転させるニュアンスを持つことがある。

『愛』も含めた、これら曖昧なニュアンスで何かを説明するときは、大抵の場合、世の中の多くの意見を代弁しているかのような、あるいは根底に自己を正当化する本意があることを示すことが多い。

今回の事件によって、『愛』という字はいつの間にか、「真心」ではなくて、心の奥の真意を「覆って隠したもの」にすりかえられてしまったのだ。
こんな詭弁はもうたくさんだ。どれだけの人を傷つけたというのだ。

<了>

-正林 俊介-

 

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