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JJ、植草甚一を知っていますか?コラージュという生き方

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R0011010_2
R0011011_2津野海太郎著、「したくないことはしない、植草甚一の青春」新潮社、を読んだ。前々回に知の巨人として立花隆と佐藤優の二人について書いたが、ぼくが本当に尊敬し敬愛する知の巨人は植草甚一だ。ぼくぐらいの年代では植草ファンはとても多いはずなので告白するのは大いに恥ずかしいのだが高校生のころからかなり影響されている。最近は彼の最盛期のいわゆるファンキーじいさんと呼ばれた世代に自分が近づいて来たせいか、思うところが多い。

ご存知ない方のために簡単に紹介すると、明治41年日本橋生まれ、早稲田建築科中退、映画評論を経て、映画、音楽(特にジャズ)、海外小説(特にサスペンス)などの評論で60−70年代の若者のヒーローとなった。特に40才を過ぎてからモダンジャズにのめり込み独特の評論とミュージシャンの紹介でジャズ評論家の中で特異の地位を築いた。読書(海外小説とニューヨーカーやエスカイヤなどの雑誌)から恐らく日本で一番アメリカを知っている筈なのに、66才になって始めてニューヨークに行き、その様子がまた話題になった。昭和54年71才で逝去。ニックネームはJJ.

JJの知の巨人ぶりは立花や佐藤とは大いに違う。自分の好きな映画、音楽、小説などに限り徹底的に主に読書を通して「勉強」する。そうJJはいつも新しい映画手法や新しい小説の流れや新しい音楽に出会うとそれを「勉強」や「研究」と称してノート(スクラップ)を作ったりしながら集中的に本や雑誌を読みあさった。そしてそれを雑誌などの記事として独特の表現で書きまくった。その読書量は計り知れないものがあった。毎日散歩と称して神保町界隈や他の東京中の古本屋を歩き回り手当たり次第に本や雑誌を買いまくった。特に海外の新刊小説や雑誌には目がなく、おそらくどの英文学専門の先生も歯が立たない多読乱読を死ぬまで続けた。晩年ニューヨークに行って当然英語の本ばかりが置いてある古本屋で興奮しながら山のような本や雑誌を日本に船便で送り続けた話は有名だ。立花や佐藤の知とJJの知の交わり(積集合)はほとんど無いと思われる。JJの評論の内容は自分の独自の視点からのものだが、その表現として様々なところからの引用が多用された。JJのもう一つの特技としてコラージュがある。雑誌やパッケージなどからの切り抜きや雑多な小物類を自由に構成して人の顔などをデザインする。何の意味もない純粋な遊びだ。

ここで、津野海太郎の本にもどる。津野はJJの晩年に多くの本の編集者としてJJとかかわった。正直言ってJJに関する本はたくさんありその多くがたんにJJの生活や作品を表面上から捉えたものだ。津野の本もその一冊かと思って手に取ったのだが、実際は他のJJ本とは大分違うものになっている。JJが生まれたころの明治の日本橋の取材から始まってJJの足跡に沿って大正から昭和の東京とそこに生きた日本(恐らく世界でも)特異な男を鋭くとらえている。表題の「コラージュという生き方」も本の中の表現だ。実際JJの作品はすべてコラージュであったかも知れない。実際に切り貼りをしたコラージュだけでなく、映画やジャズやサスペンスの紹介も様々な情報や作品の見方を切り貼りすることによってその性格を表すといった表現方法がとられている。津野はその起源をJJが青年時代に心酔した村山知義の「構成派研究」においている。構成派とは第一次世界大戦の後ヨーロッパで流行ったアバンギャルドやダダイズムといった文化運動を追求した結果ロシア革命後に起こった構成主義にたどり着く思想だ。

JJはこの村上の考え方をとても気に入っていたようだが、かといって彼のその後のライフスタイルや作品が構成主義に基づいているわけではない。おそらくJJは遊び方の一つとしてコラージュという表現を構成主義から学んだのだろう。気難しい村上がJJの作品が構成主義の流れを汲むなどと知ったらびっくりしていまうだろう。

それにしても、「したくないことはしない」という題名はいただけない。最近流行の生き方本みたいだ。JJはしたくないことをしなかったのではなく、したいことをしただけだ。

長くなったので、つづく・・・

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