これからの時代を生き抜いていくには、自分のアタマで人とは違うことを考える能力が必要になると考えています。人とは違うことを考えるためには、多様なインプットが必要です。人間は「人から学ぶ、本から学ぶ、旅から学ぶ」以外に学ぶことができない動物です。このブログでは、特に若いビジネスマンに向けて、わたしが今読んでいる本やオススメの旅について紹介します。

書評:『われらの子ども』

»

第156回.jpgわれらの子ども
(ロバート・D・パットナム著)

 わが国ではシングルマザーの家庭を中心として、子どもの実に6人に1人が貧困に喘いでいる、といわれている。このまま放置すると、社会的損失は40兆円に達するとの試算もある(「子供の貧困が日本を滅ぼす」文春新書)。本書は、アメリカにおける子どもの貧困と格差の固定という社会的危機の現実を赤裸々に描き出した力作である。

 まず、著者のふるさとの街が登場する。オハイオ州ポートクリントン。50年代は居住地域や学校における階級分離は低く、街の人はみなを「われらの子ども」と考えていた。社会経済的なはしごを登る機会は豊富だった。それが5人の級友の人生として語られる。「1950年代のポートクリントンにおいては、つましい階級の出身であることは、その才能と勤労観を活かして高く上方へと移動していくことを妨げるものではなかった」。現代では、ジェンダーと人種における格差は軽くなっているが、生まれついての階級格差がはるかに大きくなっている。資産格差が拡大して中間層が急落し、上位と下位が急増して居住地域が分かれたのだ。著者は、貧困率1%の地区と道を挟んだ貧困率51%の地区に住む2人の子どものエピソードを取り上げ、コントラストの激しさで読者の心を鷲摑みにする。その後で、豊富な統計データを用いて、エピソードを1つずつエビデンスで裏付けていくのだ。これでは誰もが腹落ちせざるを得ない。わが国では、ともすれば、エピソードが中心で統計的なエビデンスに欠ける議論が目立つように思われるが、他山の石とすべきであろう。

 同じ手法で家族の問題が取り上げられる。インタビューの対象はオレゴン州ベンドに住む白人の2家族。ここでも豊かさと貧しさが際立ち、全てのデータは「はさみ状グラフ」(上層と下層が統計学的に有意に乖離)の体を成す。例えば、母親の出産年齢。大卒の母親の中央値は約30歳で半世紀前に比べ6年ほど遅れているが、高卒の母親は半世紀前より早くなり大卒の母親より10年も先んじている。貧困に伴う孤立や絶望が意図せざる出産につながっているのだ。育児は黒人の2家族(ジョージア州アトランタ)。集中や衝動の制御、精神の柔軟性、作業記憶などの脳の「実行機能」は3歳から5歳の間に急速に発達するので、その時期に支援的な養護者がいるかいないかが大きな意味をもつ。「脳は社会的器官として発達するのであって、孤立したコンピュータではないのである」。

 学校教育はヒスパニックの2家族(カリフォルニア州オレンジ郡)。この章の最後のグラフは衝撃的だ。家族の社会経済的地位が、8年生時点のテスト得点よりも大学卒業時において重要であることが冷徹な数字で示されるのだ。「好成績の貧しい子どもが学位を取得できる可能性(29%)は、低成績の金持ちの子ども(30%)より現在ではわずかに低くなってしまっている」。アメリカンドリームの中核をなす思想、「機会平等」は、どこへ行ってしまったのだろうか。地域コミュニティは母子家庭(ペンシルベニア州フィラデルフィア)。裕福な地域の住民は貧しい地域の住民より近所を信頼し、裕福な子どもは広範なインフォーマルな助言者を持つ。こうして全米各地で人種に関わりなく機会格差が拡大し社会が分断されていることがほぼ完璧に実証される。かつてのアメリカンドリームは「夢なき社会」へと変貌したのだ。これは、決して他人事ではないだろう。「何をすべきか」と題された終章は重い。貧しい子どもの面倒を見る責任は、われら世界の大人全てが負っているのだ。子どもの貧困に関心を持つ全ての心ある人に、ぜひ、一読してほしい良書だ。

Comment(0)