これからの時代を生き抜いていくには、自分のアタマで人とは違うことを考える能力が必要になると考えています。人とは違うことを考えるためには、多様なインプットが必要です。人間は「人から学ぶ、本から学ぶ、旅から学ぶ」以外に学ぶことができない動物です。このブログでは、特に若いビジネスマンに向けて、わたしが今読んでいる本やオススメの旅について紹介します。

書評:『ケルズの書』

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第142回.jpgケルズの書
萩原 美佐枝(著)

 渾身の書である。1938年に生まれた著者は、55歳でアイルランドを訪れて、「世界で最も美しい本」(ケルズの書)に魅せられた。その頃、テンペラ画を習い始めていた著者は、ケルズの書の全装飾ページ22葉の復元模写を思いつき、15年間6088時間をかけて模写を行った。本書はその全ての記録である。

 ところで、ケルズの書とは何か。それは、8世紀の末にスコットランドの西方にあるアイオナ島の僧院で制作が開始されたラテン語の聖書写本であり、その後アイルランドのケルズに制作拠点を移して9世紀の初頭に完成された。12世紀にこれを見た歴史家が、「これは、人の手にあらず、天使の御業なり」という言葉を残している。17世紀にダブリンのトリニティ・カレッジに移されたアイルランドが世界に誇る至宝である。僕もトリニティ・カレッジを訪れて初めて見たとき、不思議な感動に襲われたことをよく覚えている。

 本書は、2部構成をとっている。最初が、圧巻の「復元模写」。1葉ずつ、図柄の丁寧な解説がつけられている。まるで展覧会の親切な音声ガイドを聴くようで、とてもよくわかる。ケルズの書のみならず、これを読めば中世の写本類の絵柄を読み解くときに大いに参考になるだろう。重要な装飾ページはオリジナルと模写が並んで置かれているが、これによって模写のレベルの高さが一目で分かる。次が、「色彩や図像の考察」。「模写をしながら感じたこと考えたこと」という副題がつけられているが、これがまた本当に面白い。顔料/染料、即ち絵の具(17種)については、世界中を走り回って当時のものを求めたが、制作途中でケルズの書の顔料研究が進み青のラピスラズリが否定されて折角ラピスラズリで描いた部分を自ら削り落したときの耐え難さなど、制作のプロセスが正直に吐露されている。図像については、例えば、ライオンは1本足、2本足、3本足、4本足で描かれていることや、日本と比較した幾何模様や渦巻きの構造の解説など、勉強になる部分が多い。また、4人の福音書記者の1人の足が地に着いていないのは三位一体を意味しているからではないかと考察できたのは、「さあ、始めよう、できるだけ似せて見せる。このページは我が生涯にこの1枚のみ。もし2度描くときには気が狂うであろう」と自らに言い聞かせて各ページを熟視熟考してきた著者ならではの発見だろう。なにしろ、複雑な1葉を描くのに最大592時間を費やしているのだから。

 特筆すべきは、本書は全ページが和英両文で綴られていることだ。在野で1人でやってきた著者は「数々の間違いを犯していると思うので批判してほしい」、更にはケルズの書の研究が進むことを願って「次のステップに繋げるため、書物として公開した」のである。この凛とした気概こそ、多くのプロの専門家や研究者に見習って欲しいと思うのは僕だけだろうか。今年読んだ本の中で、最も心を打たれた何冊かのうちの1冊である。

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